バレエ絵の画家エドガー・ドガ

エドガー・ドガは1834年フランス・パリで生まれた。父親が銀行員だったため、裕福な家庭で育った。ドガは1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモートに師事した。ドガはデッサンに非常に優れた画家で、踊り子や競馬場の馬や騎手などの「動き」を描写するのが得意で、肖像画では心理的な複雑さや人間の孤独性の描写に秀でていた。

<自画像>1855

ドガは通常印象派の画家の一員とみなされていて、印象派展の企画に携わっていたが、光と影の変化をキャンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にあった。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。幼少の頃からドガは、歴史的古典絵画を描きたいと思っていたため、厳格なアカデミック訓練を受け、古典芸術の熱心な研究を行う。しかし、30代前半からマネの影響を受けて、スタイルをやや変更し、歴史的巨匠の伝統的な技術で現代の主題を描くようになり、モダニズム生活の古典画家と呼ばれるようになった。ただし、ドガも他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に葛飾北斎の影響を強く受けていることが小林太市郎によって指摘され、日本におけるジャポニスム研究の発端となった。
父が法律学校へ進むことを希望していたからドガはパリ大学法学部に入学したがほとんど勉強する気はなかった。1855年に法律の勉強を続けることなく、国立美術学校に入学する。

<横になっている裸の女性>1834

ドミニク・アングルに出会い、ドガは彼を尊敬し、彼からのアドバイスを生涯忘れることなく、「線を引く」よう助言を得て、生涯にわたってデッサンを重視する。アングルの弟子ルイ・ラモットからドローイングやデッサンを学び、また尊敬しているアングルのスタイルを学び、腕を鍛えた。国立美術学校を退学し、56年よりイタリアを拠点に活動した。59年パリに帰還し、イタリア滞在時に知り合ったギュスターヴ・モローの影響を受け、古代アッシリアの場面を幻想的に描いた<バビロンを建設するセミラミス>など主に歴史画を制作する。

<バビロンを建設するセミラミス>1862

65年、<中世の戦争の場面>でサロンに初入選する。この頃、エドゥアール・マネと親交を深め、70年のサロン出品を最後に発表の場を印象派展に移すことになる。1864年にドガはルーブル美術館でベラスケスの模写をしているときにマネと出会った。

<中世の戦争シーン>1865

ドガといえば、バレエの絵が有名である。手足をのびやかに踊るドガのバレエダンサーの絵は、バレエに興味がない人をも惹きつける。当時の、踊り子は、今とは違って貧しい娘たちだった。給料も安く、多くの踊り子は、観客として来る裕福な男性の愛人となることで、貧困から抜け出していた。
貧富の差が激しい近代社会の残酷な現実を描くために、ドガは、踊り子たちの絵に、たいてい「ハゲオヤジ」の姿を描き足している。退屈そうにバレエを眺める黒づくの男性像は、愛人を品定めする当時の「立派な紳士」でもある。 ドガは美しい、踊り子とオヤジを同時に描くことで、社会の現実を描写していた。

<ステージでのバレエリハーサル>1874

1860年代後半までに、ドガの画風は初期の歴史画から現代の生活を描写したものに変化して、競馬場のシーンは現代的な文脈で、騎手や馬を描く機会を与えた。ほかに、オフィス、工場、洗濯をする女性なども描きはじめていた。

<4人の騎手>1889
<風景の中の競走馬>1894
<アイロンをかける女性>1873
<アイロンをかける2人の女>1884

1868年にパリ・サロンで展示された<バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」>は、最初の代表的な作品となり、ドガといえば「踊り子」というイメージを一般世間に植えつけるようになった。

<バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」>1868

ドガの作品にはバレエを扱った楽屋や練習風景、舞台袖といった一般人では出入りできない場所での場面を描いたものが多い。当時、踊り子たちの舞台裏をありのままに描いた。印象派の多くの画家たちとくらべれば、銀行家の息子であり裕福な家庭の出身であったドガは、バレエを好み、オペラ座の定期会員になっていた。座席を年単位で購入する定期会員は、オペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許されていた。当時、オペラ座の一般会員は上流階級の社交場でもあったので、父の逝去後、経済的には苦しくなった後にもドガは一般会員を続けていたものと思われる。ドガの描いたバレエの主題の多くはそこで見た風景である。
ドガは特に踊り子たちの姿勢やポーズに着目し、動きを捉えていた。<リハーサル>では、斜め奥に向かう空間を螺旋階段が重層化し、多種多様な動きや身振りをした踊り子たちが分散して置かれている。

<リハーサル>1874
<ダンス教室>1874

1876年の<コンコルド広場>のような作品での、大体な筆致は、人が動いているところを瞬時に凍結させたかのような「動き」を感じさせる。
また、1874年の<ステージでのバレエリハーサル>のモノクロトーンの色調は、このころに登場した写真への関心が伺われる。

<コンコルド広場>1876
<ステージでのバレエリハーサル>1874

サロンに幻滅したドガは、サロンからの独立展示会を企画している若手画家のグループに参加する。このグループがのちに印象派と呼ばれるようになる。
1874年から1886年の間に、印象派の作家たちは、「印象派展」として知られる独立した展示会を8回開催した。ドガは印象派展を企画するリーダー的な役割を担い、1度をのぞいてすべての展示会に参加した。
ドガは人とぶつかることが多く「傲岸不遜」と評されることがあった。
とある印象派の画家は、ドガのことを「才能は素晴らしいが、人間性はひどい」、「自分以外の世界全体を恨んでいる」、「才能に見合った立場を得られない」と批判している。
印象派展の運営についても仲間と意見が対立することが多く、「ドガは気難し屋」だと言われていた。
当時の画家の王道は、官展であるサロンに入選してアカデミーに認められることだった。
デッサン力のあるドガは、審査員好みの絵を描いてサロンの常連となることもできた。実際、他の印象派の画家たちと違って、サロンに落選したことがない。
しかし「本当の芸術はそんなものではない」との気持ちに逆らうことができず、あえてサロンには認められない絵を描く道を選ぶ。
そして友人のマネとともに、後に印象派と呼ばれる反主流派グループの中核メンバーとなる。ところが、「サロンはアホの集まり」と断じるドガとは違って、マネは自分の好きな絵を描いて「サロンに認められたい」人だった。
後にドガがモネやルノワールらとともに印象派展を立ち上げたときも、マネは参加しなかった。「印象派展の参加者はサロンに出品してはならない」とのルールをドガが作ったからである。
このルールは当初こそ「オレたちはサロンの俗物どもとは違うぜ」と団結力を高めるのに役立ったが、後に一部の画家が「やっぱりサロンにも出品して多くの人に見てもらいたい」と考えるようになり、軋轢のもととなった。
そうして印象派の画家たちは、ドガをはじめとする「現代生活のリアルを描く」派と、モネをはじめとする「自然の光をリアルに描く」派とに分裂してしまうことになる。
最終的に、モネやルノワールらもドガのもとを離れ、サロンに戻る。それでもドガは自らの信念を曲げず、己の道を進んだ。

<オーケストラのミュージシャン>1872
<彼女のバスの女性、彼女の足のスポンジング>1883
<浴盤>1886
<ダンサーのフリーズc >1895

ドガは印象派展のほぼすべてに参加したことから、印象派のひとりとしてくくられるが、戸外制作でスケッチをすることなく、デッサンと古典的な技法に基づいて絵を描いた。また、自然がまとう光ではなく、バレエやオペラ、競馬場、都市の生活に関心を向けたという点でも同派のほかの作家とは一線を画す。後年の作品では、浮世絵の影響から大胆な構図を取り入れて臨場感を持たせ、バレリーナの体の一部のみを描くなど、カメラのスナップショットのように瞬間を切り取ることに成功している。晩年は視力が弱まったため、パステル画を中心に彫刻作品の制作にも取り組む。

<彼女の風呂の女>1895
<入浴後、首を乾かす女性>1898
<ブルーダンサー>1899

1880年代後半になると、ドガは写真へ関心を持ちはじめる。ドガはランプライトを使って、多くの友人の写真撮影を行った。ほかに踊り子、ヌード写真も多数撮影しており、それらの写真は、ドガのドローイングや絵画の下敷きともなった。
晩年になるにつれて、ドガは個人的な人生を持つことができないという画家の信念のために、孤立していった。ドガの理屈っぽい性格はルノワールに非難され、ルノワールはドガに関して、「ドガはどんな人間だったか!彼と友人になった人はすべて、彼と喧嘩別れしなければいけなかった。私は最後まで彼の友人だった一人だが、最後まで残ることはできなかった」と話している。
11907年の終わりころからドガは、パステルで版画作品を制作するようなり、1910年後半には視力の低下にともなっておもに彫刻で制作をおこなう。1912年に作品制作をやめる。ドガは生涯独身で、1917年9月に亡くなる前はパリの通りを彷徨い歩いていたという。 代表作に<エトワール>、<アブサン>、<ニューオーリンズの綿花取引所>1873)がある。

<ニューオーリンズの綿花取引所>1873
<エトワール>1876
<アブサン>1876