ブラックピカソと呼ばれた現代アート界の孤高の天才バスキア


ストリートに一生を描いた天才ジャン=ミシェル・バスキア

ピカソ以来の抽象主義の潮流がキャンバスを飛び出し、マルセル・デュシャンの「レディメイド」が隆盛を誇っていた時代に、バスキアは原色の抽象的なシンボル、グラフィティ、哲学的で詩的な絵画表現で、瞬く間に人々を魅了した。
「ブラックピカソ」と呼ばれ称賛されたバスキアは、アンディ・ウォホールやキース・ヘリングといった同時代のアーティストと交流を深め、ジョニー・デップやマドンナといった著名人からも愛された。彼の作品は、社会風刺を込めたジェイ・Zの曲「Piccaso Baby」にも登場し、その影響力は世界中に広まった。
1988年8月12日、バスキアはマンハッタンのスタジオで27歳という若さで薬物過剰摂取により命を落とす。しかし、彼の残した作品には、「金持ち」と「貧乏」、「外側」と「内側」、「統合」と「分離」など、真実を追求する哲学的な視線が込められている。
イメージとテキスト、抽象と具象、歴史と現代批評を融合させ、自伝的なストーリーと死をテーマに、地下鉄やストリートの落書きを芸術に昇華させたバスキアは、まさに革新的な存在である。1985年には「ニューヨークタイムズ」の表紙を飾り、その名声は世界中に轟かせた。
バスキアの短くも輝かしい生涯と、社会に深く切り込む作品は、現代アート史に永遠に刻まれ、多くの人々に影響を与え続けている。

1960年ニューヨークのブルックリンで生まれたバスキアは、プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、母に連れられニューヨークの主な美術館に行きピカソとレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を良く見ていたという。幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていた。1968年 アルフレッド・ヒッチコックの映画、自動車、漫画、そしてマッド・マガジン(Mad Magazine)のAlfred E. Newmanのキャラクターに影響された漫画的な絵を描き続けていたという。ストリートでボール遊びをしている時に、自動車事故に遭って重傷を負い、入院するが、この時に母から受け取った「グレイの解剖学」という解剖学図は彼のアートに大きく影響を与えることになった。両親の離婚により、妹とバスキアは父親に聞き取られることになる。

1978年父親の実家から独立することになるが、この前まで家出をしたり、高校で問題を起こしたりして父親との仲は良かったとは言えない。父親もバスキアが実家から独立した際に諦めて金銭を与えて送り出した。

独立後バスキアはポストカードとTシャツを売って、わずかな生活費を稼いでいた。

バスキアは有名になる前にニューヨークでストリートアートグループの「SAMO(“Same Old Shift” =いつもと同じだ)」というユニットを結成し、どんどんアート活動を広げていた。

「SAMO」の時代には、マンハッタンのダウンタウンの建物や塀にたくさんの塗装スプレーを使ったグラフィティ・アートを多く描く。社会を風刺するバスキアならではの政治的で詩的な作風は、少しずつ注目を集めるようになる。様々な場所で活動し、アンディ・ウォホールに直接ポストカードを売りつけたこともあった。

バスキアが20歳の時、SAMOでの活動を休止していたバスキアは、初めて自分の名でのグループ展に参加した。たくさんの有名アーティストが参加している中、バスキアの作品も引けを取らず、様々な美術評論家や学会員の目に止まることになる。

これをきっかけにアーティストとして生きていくことをバスキアは決意して、SAMOだけでなく、バスキア名義でもどんどん活動を広げていく。

バスキアの「新表現主義」の絵は、抽象的でもあり具象的でもある。20世紀のモダニズム美術の流れを踏まえ、ジャズやヒップホップ、アフリカの民俗や人種問題など、黒人アーティストならではの主題を多く扱っていた。

人種差別や奴隷制にまつわる事件や、歴史上の人物、またミュージシャンやスポーツスターなどが作品内に直接現れていることも多く、ヒーローはしばしば王冠のイメージで表現された。

王冠は今やバスキアのトレードマークとなっている。

また、バスキアの作品の中には文章や単語や地図記号、数字やロゴなどが多く登場する。

また、対になるもの(黒人と白人、ホームレスと富裕層など)をキャンバスの中に描く「挑発的二分法」と呼ばれるやり方で社会に対するバスキアの想いを表現している。「挑発的二分法」とは、2つのものに焦点を当てて作品を制作することをいうが、バスキアの作品は、「金持ち」と「貧乏」、「外側」と「内側」などの相対するもの2つに焦点を当てて制作していることが多い。

1980年代に入りバスキアは、それまでのストリートペインターから、徐々にドローイングやタブローを制作するアーティストへと変貌を遂げていく。

バスキアがはじめて作品を正式に公開したのは1980年のことで、ニューヨーク7番街41番地の空き家で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」が最初である。この展覧会でバスキアは、さまざまなキュレーターや美術評論家などの注目を集めた。 1981年12月にはルネ・リチャードが「Artforum」誌でバスキアを紹介したことで、またたく間に世界的スターダムへと駆け上がることになる。

1983年、「ポップアート」で有名なアンディ・ウォホールと出会い親交を深めていくことになる。ウォーホルはバスキアの才能を見抜き、2人は意気統合した。この出会いがきっかけとなりウォーホルとバスキアは友情を深め、後にコラボレーション活動をすることになる。

存在、生き方、考え方、スタイル、人脈などすべてにおいてバスキアの憧れだったウォーホルこそ、アート界の象徴的なキングととらえていた節もある。

<Untitled (Skull)>1981

<Untitled (Skull)>はバスキアの作品の中でも初期の作品である。この作品では、「内」と「外」の2つに焦点が置かれている。実際の頭蓋骨とは、この作品のように歯やあごはむき出しで肌がない。「外」を知覚することのできる、鼻や目、耳などは、頭蓋骨の「内」に存在していて、外と内が1つの絵画の中に点在している。
頭蓋骨とは死を表しているものだが、ここでは、目や耳、鼻、髪の毛なども存在していて、まるで頭蓋骨に奇妙な魂が宿ったように思える。

<Untitled(Boxer)>1982

バスキアの作品にはボクサーがモチーフとしてよく用いられる。 人種差別問題について扱うとき、しばしば象徴的な存在として、ジョー・ルイスなどの黒人ボクサーが登場するのは、白人トレーナーたちによってファイトマネーが搾取されてきたという歴史があったからである。

<黒人警察官の皮肉>1981

ニューヨークで育った 「黒人」であるバスキアにとって、多くの同じような人種の人間は、白人社会の中での抑圧的な警察官を敵視していると考えていた。そんな警察官になりたがる、アフリカ系アメリカ人を皮肉的に批判している作品である。

<Untitled>1982

この作品は、これまで購入されたバスキア作品の中で最も高価な絵画で、2017年5月、サザビーズのオークションで前澤友作が1億1,050万ドルで落札した。

< Napoleon>1982

バスキアは「黒人アーティスト」いうレッテルを嫌っていた。そしてバスキアはアーティストとして有名になるというオブセッション(強迫観念)が人並み以上に強かったという。

バスキアの絵はグラフィカルなイメージと断片的な文字がリズミカルに混在しており、時に一見すると関係なさそうな言葉が重なり合い暗号化されていて、そういった荒削りにも見える若きインテリジェンスが当時のアート界にとって刺激的だった。

<無題(黒人の歴史)>1983

画面の中央には、エジプトの死者の神であるオシリス船とともにナイル川を下る様子が描かれている。作品の右側には、描かれている黒人の上に、「Esclave, Slave, Esclave(奴隷)」という字が殴り書きで書かれている。
奴隷貿易やプランテーション制度など、アメリカの奴隷制度の歴史を現した言葉や、しばしば貿易に用いられてきた塩(salt)という文字も象徴的に配置されている。
今、人種差別はタブーであり、あってはならないことだが、かつて黒人を奴隷扱いしていたという事実は忘れてはいけないことでもある。
そんな中、都合よくその事実を忘れ、過去の悲惨な歴史を歪めようとしていた、当時の歴史学者を表現しているとも言われています。 他にも、アメリカの奴隷貿易やプランテーションでの奴隷の強制労働の歴史などを垣間見ることができる。

<Carbon/Oxygen>1984

政治的、社会的、人種問題などいくつかの違ったテーマが、文字やシンボルによって暗号みたいに潜んでいるところがバスキアの作品の魅力である。カートゥーンのようなイメージに言葉や記号が連鎖したようなバスキアの即興性の強い絵は、ひとりのアーティストの思考や意識の流れが反映されているかのようで、まるでパズルを解いていくように見るものを引き込む。

1984年から85年にかけては、バスキアにとって美術界で評価が得られなかった時期であった。その時期にバスキアは尊敬する友人であるアンディ・ウォホールとのコラボ作品を多数制作している。

<Plastic Sax>1984

<Self-Portrait>1985

しかし彼は段々とアンディ・ウォホール以外、信頼できる友人がいなくなってしまったと言われている。

2人の交流はウォーホルが亡くなる1987年まで続き、彼が死んだ後バスキアはひどく落ち込んだ。

1987年にアンディ・ウォホールが亡くなると、さらに孤立を深め薬への依存度が高まっていく。

うつ病も悪化しハワイのマウイに滞在してしばらく静養していたバスキアだが、ノーホーにある自身のスタジオに帰り、1988年8月12日にヘロインの過剰摂取により27歳の若さで亡くなる。

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