ミケランジェロ、<システィーナ礼拝堂の天井画>と<最後の審判>

絶対的な権力者である教皇にさえ逆らえながらミケランジェロは<システィーナ礼拝堂の天井画>という300坪の巨大なプレスコ画を描いた。 なぜ彼はこのような絵を描いたのか?

一般的に世の中で有名な絵と思 われるものは人それぞれ違うと思うが、美術史で一つ重要な絵がある。それがシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの壁画である。

しかし、このような大作を完成するまでにミケランジェロは聖職者たちと神経戦を繰り広げたり、挙句には最高権力者教皇にも歯向かっていたという。 ミケランジェロの絵に隠されているその事情とは?

ルネサンス時代の歴代の教皇には重要な任務があった。それはローマをキリスト教の首都らしく再整備することだった。 その中心に教皇庁新しく再整備することがあった。当時の教皇たちが特に関心を持った場所は教皇の専用聖所と言われているシスティーナ礼拝堂だった。 教皇の権威がどこからきているのか?神様からどんな役割を与えられたかを象徴する場所であったからだ。ここに描かれるものはすごく重要であった。元々システィーナ礼拝堂の天井は暗い色に星が描かれている単純な絵だった。しかし、ここに教皇の権威を高めるために絵を描こうと計画したユリウス2世教皇が現れる。ユリウス2世教皇が注目していた芸術家がミケランジェロであった。ミケランジェロが作ったピエタとダビデ像を見てユリウス2世はご自身が死んだときのお墓の像を頼んだが、急に天井画を描くように注文した。

彫刻だけしていたミケランジェロに絵をかくようにと言われたミケランジェロは青天の霹靂ではなかったと思われる。頑固な性格であったミケランジェロは当然素直に受け入れてなかった。ミケランジェロは固辞を繰り返したが結局教皇の提案を受け入れることになる。

彫刻家であるミケランジェロに絵を描くように頼んた理由は、ミケランジェロがユリウス2世のお墓の像を作ろ事になって、教皇の寵愛を受けていたら、これを嫉妬した建築家のブラマンテがミケランジェロに難しいことをさせるために教皇に話したという記録がある。 ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画の仕事を拒んだり、失敗したりしたらブラマンテは自分の側近であるラファエロに仕事をさせて、ミケランジェロに恥をかかせようとした。ミケランジェロはこれを知っていて最後までやらないようにして彼らの悪巧みから逃れようとした。結局、ラファエロとの競争心からこの作業を受諾したと考えられる。

ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の巨大な天井の下に立ってものすごい芸術的な欲を感じたと考えられる。彼の心の中のどこかには成功と富への欲もあったと思われる。

ミケランジェロは没落した貴族家庭の環境から抜け出すために成功を掴むことに強い欲望があった。このような俗世的な欲望が最終的に彼の芸術にいい影響を与えたと考えられる。

システィーナ礼拝堂に入ると天井に広がる<天地創造>が見える。日本で一般的に<天地創造>と呼ばれているミケランジェロの作品は、実はシスティーナ礼拝堂の天井画全体を差すことが多い。絵を見ているだけではその大きさが分からないが、幅が14m、長さが40mの天井の面積だけで560㎡(おおよそ200坪)だが、その周りの部分まで入れると300坪の想像を超越した超大型の絵である。

<天地創造>で一番有名な絵の「アダムの創造」でアダムの大きさがミケランジェロの彫刻のダビデ像の大きさ(5.17m)ぐらいであるが、天井画の一部であるアダムの大きさがこの大きさだと全体の天井画の規模は想像を超える大きさである。ちょっと見ているだけで首がこると思うが、ミケランジェロはここでほぼ5年間作業を続けた。彼の執念と闘志に自然と頭が下がるし、敬意を払いたい。

絵の中心は天井の中央部分を占める9枚の絵がある。その周りに7人の預言者と5人の巫女の絵が描かれている。中心となっている9枚の絵は、システィーナ礼拝堂の入口に立って見た場合、手前から「神による天地創造の場面」、「アダムとイブの創造と追放の場面」、「人類の破滅とノア一族の物語」の3つの場面に分けられる。そして各場面はそれぞれ3枚の絵で構成されている。最初の場面では、「光と闇の分離」、「太陽・月・植物の創造」、「大地と水の分離」が描かれ、2番目の場面では、「アダムの創造」、「イヴの創造」、「原罪と楽園追放」が、最後の場面では、「ノアの燔祭」、「大洪水」、「ノアの泥酔」が描かれている。構造的には大き絵の次に小さい絵の順で描いていてリズミカルだと思われる。中央の創世記の周りには大きな人物たちを見ることができるが、この絵の間には彫刻像描いて区分けしている。最初はこの彫刻像は、本当に彫刻なのか絵なのか議論があったほどにパッと見ると本当の彫刻に見えるぐらい立体感が感じられる。この絵を描くための建築構造物も詳細に描いてある。

上の絵の左側は入り口の方で右側は祭壇の方であるが、この絵はどこから描きはじめたか?ミケランジェロが絵を描いている最中でも、教皇は礼拝堂を使わないといけなかったため、入り口の方から描きはじめた。

「ノアの泥酔」から描いて「イヴの創造」、「アダムの創造」の順に描いた。最後に描いた絵を見てみるとこの空間に関する理解度が高まっていて、登場人物の動きがより大きくダイナミックに見える。最初の方の絵は登場人物が多く、動作が小さいが最後の方の絵は人物が少なく、動きがダイナミックである。

このようなものすごい作品を作ったミケランジェロは高潔な精神を持っている芸重塚だと思われがちだが、そうは言いにくい。ミケランジェロの美学を語る時、恐怖感を感じさせる極限の美である「テリビリタ」という用語がよく使われている。この言葉は、ミケランジェロの癖ある性格を表すに適しているとも言える。本当に乱暴で血の気の多い性格が天井画の作品を作る時も頻繁に爆発したというが、その相手が皇帝より権威があったと言われている教皇ユリウス2世だという。教皇は、作業が遅れていることや絵を見せてくれないミケランジェロにすごい不満が募っていたし、ミケランジェロは支払いが遅れていることに常に怒っていた状態だったが、ある日教皇がミケランジェロに天井画が一体いつ完成できるかを問いただすとミケランジェロは謝りもなく、終わる時に終わると話したという。誠意の無いミケランジェロにすごく怒った教皇が持っていた杖でミケランジェロの頭を叩いたという。プライドの高いミケランジェロはものすごく怒って家に帰ってローマを離れようとしたいう。これで教皇は直ぐに使用人を送って滞納されていた賃金を一括で支払ったという。滞納された賃金は、500ドゥカートで今の貨幣価値に換算すると5千万円ぐらいである。システィーナ礼拝堂の天井画を描きながら教皇と常に対立していたミケランジェロの真に戦わないといけなかった相手は自分自身であった。他人の意思によって始めた作業だが、絵に対する情熱は本物だったからだ。ミケランジェロがどのように天井画を描いたかを知ったら、作業当時の彼がどれほど自分自身と激しい死闘を広げたか理解できると思う。多くの人が足場に寝転がって絵を描いたと思っているが、実際はハシゴに登り頭を上げて一日中絵を描いた。高い天井に頭を上げて絵を描いたから当然ながら首だけではなく、腰痛にも悩まされていたし、天井画見上げて絵を描いたから絵の具が目に入り、視力も低下したし、皮膚病にも悩まされたという。

ミケランジェロはこのように彫刻家から画家へのステップアップする圧迫感と身体的苦痛、生活苦など日常の煩悩の中、<天地創造>という傑作を完成させることになる。<天地創造>が完成してから20年後ぐらいにローマは混乱の時代を迎えることになる。キリスト教は、新旧教に分かれて常に緊張状態だったし、宗教改革とカール5世のローマ侵攻などで阿鼻叫喚の状態だった。このような世の中を正すには何か強力なものが必要だった。そのとき、教皇(バオル3世)が考えだしたのは、神様の言葉とカトリックに逆らうと最後の審判を受けるというメッセージを伝えることだった。この時にもミケランジェロが呼ばれることになるが、他の契約があると言い訳をして固辞する。ここでまた教皇クレメンス7世が怒って、このように話したという「私はミケランジェロに作業を頼むために30年を待たされた。教皇になっても不可能だというのはどういうことか?あなたが持っているという他に契約したというその契約書を破ってしまいたい」という記録がある。結局、ミケランジェロは教皇クレメンス7世の命令に逆らえなくて、この絵を描き始めて6年後に最高の傑作<最後の審判>を誕生させる。

<最後の審判>は、システィーナ礼拝堂の正面に位置したキリストの再臨と全人類に対する神による最後の裁きを描いており、死者たちが著名な聖人たちに囲まれたキリストによって裁かれ、それぞれの運命に降りかかる様子が描かれている。この絵で一番印象的なのは真ん中に描かれているキリストの絵である。すべての人物たちが、中央に描かれたキリスト像の周りを巨大な回転運動で回っているような印象を受ける。画面の中心には、最後の審判において個々の判決が下される際のキリストが描かれており、呪われた人々を見下ろしている。少し混沌しているように見えるが、しかし、最後の審判ということを考えるともすごく怖い最後の日を考えると体系や論理などは考えらるの難しい。これはダンテの「神曲」の影響を受けているとも思われる。何よりも<最後の審判>は遠近法がない。よく見ると中央のキリストが見る側に近い下の人物よりも大きく描かれている。多分、コンセプトを強調するために大きさや遠近法を意図的に再解析して再配置したと思われる。興味深いのは最後の審判の日に開く地獄の門の位置だが、祭壇のすぐ後ろに位置している。しかし、十字架がこれを塞いでいることになっている。

私たちが受けている感銘とは違い、<最後の審判>は大きく議論されることになった。法王礼拝堂用の作品ではなく、風呂屋か宿屋むきの作品のようだなど酷評を浴びった。当時の時代の雰囲気はオールヌードの絵は容認できないものだったからだ。何よりも衝撃的なのはキリストの姿であった。今までのキリストの姿はヒゲがあって慈悲に溢れる表情で細い体格であった。しかし、<最後の審判>のキリストの姿は権威を表すヒゲがなく、筋肉質で体格の良い青年のようだ。決定的にくせ毛である。バチカン美術館にあるアポロン像と激似している。キリストはヌードで異教徒の姿に描いたといて、神聖冒涜で不謹慎だという声が出るしかなかった。実際に教皇の儀典長ビアジョ・ダ・チェゼーナは、ミケランジェロが描いた<最後の審判>は不適切で不敬な絵だと言っていた。この話を聞いてミケランジェロは、地獄の審判を務めるミノス王の顔をビアジョの顔に似せて描いた。このミノス王が描かれた位置も奇抜である。教皇の居住地からシスティーナ礼拝堂に入る門のすぐ横に描いて、誰もがこの顔を見るしかない。これを見たビアジョが何とかしてくださいと教皇に泣きつくも、「いかに私でも、地獄でのことは請け合えないよ」と流されてしまった。ミケランジェロに憎まれたビアジョは後世代々の人々に見られ続けている。

問題になるのを分かっていてヌードに固執して描いたのはなぜなのか?

アダムが生まれた時に服を着て生まれたのか?と質問してみる。聖書では神様は自分の姿で人間を作ったとしている。ある種のエリート教育を受けていたミケランジェロは特に古典的な教えには美しい魂は美しい体に宿るという信念を持っていたと思われる。このような神様の姿をした人間の美しさを表現したかったと考えられる。幸いにもミケランジェロを指示した教皇パウルス3世のお陰で絵を守ることはできたが、パウルス3世が亡くなってからトリエント公会議で<最後の審判>は破壊される危機に直面する。幸いにヴァザーリらなど芸術に良識を持っている芸術たちの擁護により、絵の破壊は免れたという。<最後の審判>のヌードの部分に服を着せる条件で残すことになった。美術史で一番危ない瞬間だったかも知れない。描かれていた性器は、1564年にミケランジェロが亡くなった後、マニエリスムの画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラによって、おそらく大部分が布で覆われるように塗り替えられた**。**最近、<最後の審判>は上書きした部分を除去して元の色を補う復元作業を行ったが、この復元作業で上書きされた部分が明らかになった。その中で聖女カテリーナの大部分と、その背後にいる聖ブレーズの姿全体をノミで削り取り、完全に描き直されているという。これは、原画ではブレーズがカトリーヌの裸の後ろ姿を見ているように見え、二人の体位が性交を連想させるためである。修正版では、ブレーズが聖カテリーナから離れ、キリストに向かって上を向いている。

もし、弟子によって書き直されたとミケランジェロが知っていたらどうなったか? ミケランジェロは1564年90歳で亡くなった。絵が書き直されたのはミケランジェロが亡くなった翌年の1565年である。教皇庁がミケランジェロを配慮したかも知れないが、絶妙なタイミングである。

ルネサンス時代にどの画家もやろうとしなかったヌード画を教皇庁の神聖なシスティーナ礼拝堂に描いたミケランジェロは、時代と権力に真っ向勝負して<最後の審判>を完成したが、この壁画は芸術かエローかどっちだったのか?私たちはその当時の教皇の考えは伺える。この壁画を完成させたパウルス3世は、完成作を見てこう口にしたという。「主よ、審判の日にあなたが再臨されましても、どうか私の罪を咎めないでください。」