ルネサンス文化を育てたメディチ家

フィレンツェの名家・メディチ家の栄光とともにあったイタリア・ルネサンス。

ヨーロッパの名家と呼ばれているのがブルボン家、メディチ家、ハプスブルク家、ルクセンブルク家、カペー家、ウェセックス家、ロスチャイルド家などがある。

これらの名家は、ヨーロッパ史の多くの重大な出来事に関与し、近代ヨーロッパの基盤を形成する上で中心的な役割を果たした。ヨーロッパ諸国の君主として君臨し、ヨーロッパ全体の歴史に重大な影響を及ぼしてきた名家の中で今回はイタリアのフィレンツェの大富豪で、共和政で強い発言力を持ち、15世紀にはルネサンスの芸術・学問の保護者となったメディチ家とルネサンスについての話である。

ルネサンス Renaissance という語は「再生」(re- 再び + naissance 誕生)を意味するフランス語で、19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレが「フランス史」第7巻(1855年)に「Renaissance」という標題を付け、初めて学問的に使用した。
14世紀から16世紀の間にヨーロッパの歴史を輝かせたルネサンスは、文化、芸術すべてにおいて古代ギリシャ、ローマ文明の再認識と再受容を意味する「文芸復興」で、歴史的には神中心の中世から人間中心時代の近代がスタートする時期でもあった。

イタリア・フィレンツェに花咲いたルネサンスは人間らしい生き方を追求するヒューマニズム(人間主義)に焦点が当てられていた。

ルネサンス以前の中世ヨーロッパは、封建社会とカトリック教会の戒律によって、人々は束縛されてきたが、この時代が崩壊すると、人々は人間性の解放を求めるようになった。これが14世紀から16世紀にイタリア・フィレンツェで起こった「ルネサンス」(Renaissance-古代文化の復興・再生)である。 イタリアの都市フィレンツェは、中世の時代「フィレンツェ共和国」という一つの都市国家だった。14世紀から15世紀にかけて銀行家、政治家として繁栄したメディチ家である。フィレンツェ共和国で実権を握ってからは、文化支援を積極的に行い、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとする多くの芸術家たちを支援した。メディチ家からの支援を受け、活躍した芸術家の中には、ドナテッロ(1386-1466)、サンドロ・ボッティチェッリ(1445-1510)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)などがいる。

13世紀から17世紀までフィレンツェで強い影響力があったメディチ家については否定的な評価も多いが、メディチ家の話しは政略結婚で繋がっているヨーロッパの歴史の話でもある。封建社会の崩壊によって金融業などで巨万の富を築いたメディチ家は、教皇、トスカーナ大公、フランス王妃などを次々と輩出し、ヨーロッパの聖俗の両世界に君臨した。

メディチ家は平民出身で一族の繁栄の基礎を築いたのがジョヴァンニ・デ・メディチ(1360~1429)である。ジョヴァンニは、銀行業で大きな成功を収める。ジョヴァンニは、銀行業務を学ぶためにローマにいる親戚を訪ね、10年ほど銀行に勤めながらお金の流れを把握した。その後、親戚が運用していたローマ銀行を引き受けてフィレンツェに戻ってメディチ銀行を設立した。当時のフィレンツェは中世ヨーロッパの中で銀行が最も発達していた都市であった。メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。これは教会大分裂(シスマ)の続くキリスト教界の対立に介入し、バルダッサッレ・コッサなる醜聞に包まれた人物を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた賜物であった。1422年、ローマ教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデの伯爵位を授けようとしたが、ジョヴァンニは政治的な配慮から辞退し、一市民の立場に留まった。だが、ヨハネス23世は5年で教皇から追い出されて危機になる。コンスタンツ公会議は現職の三教皇を退任させたことによって、1417年、新教皇にマルティヌス5世を選出した。辞退になったヨハネス23世は、異端、聖職売買をはじめ、海賊、殺人、強姦、男色、近親相姦など様々な罪状で4年間拘禁され、35億円ぐらいの罰金を命じられた。ジョヴァンニはヨハネス23世にお金を貸して監獄から出られるようにして、フィレンツェに家を用意し、生活費も支援した。ヨハネス23世の死後、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(フィレンツェ大聖堂に隣接)にジョヴァンニの依頼でドナテッロとミケロッツォ・ディ・バルトロメオが制作したヨハネス23世の墓碑が造られた。ヨハネス23世は亡くなる前にメディチ家にプレゼントを残すが、それは「指」である。当時の聖職者の「聖遺物」は価値を測れない宝であった。この指はメディチ家の家宝になる。ジョヴァンニは銀行家としてお客さまに対する信頼と信用を貫く姿をヨハネス23世にしたことでメディチ家の姿勢を世の中に示した。

ジョヴァンニの息子であり、「祖国の父」と呼ばれたのが、コジモ・デ・メディチ(1389~1464)である。コジモは政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握り、1434年から一時期を除き、1737年までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する。自らの派閥が常に多数を占めるように公職選挙制度を操作し、事実上の支配者(シニョリーア)としてフィレンツェ共和国を統治した。家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、ロンドン・ジュネーヴ・アヴィニョン・ブルッヘなどへ拡大した。メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。
コジモは31歳のときに父から銀行経営を引き継ぐと、海外進出など巧みに支店を拡大させ、メディチ銀行を大躍進させることに成功する。さらに、高級原料や高級衣料など様々な輸出品を手がけて、莫大な利益を手にしている。コジモは銀行家だったが、人文学的な教養を持った知識人で、自分の財力を使ってギリシャ、ローマの古文書を収集し、翻訳してプラトン・アカデミーとメディチ図書館を開いた。

孫であるロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492)は優れた政治・外交能力を持っていた。イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。パッツィ家の陰謀への対処に見られるように反対派には容赦無い弾圧を加える一方で、一般市民には気前良く振舞い、またボッティチェリ、ミケランジェロなど多数の芸術家を保護するパトロンとしても知られている。ロレンツォの時代はフィレンツェの最盛期でもあり、「偉大なるロレンツォ」(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)と呼ばれた。フィレンツェを実質的に統治していてルネサンス最高の全盛期を花咲かせた15世紀の政治家で、詩人でもあったロレンツォは祖父の遺志を受け継いでプラトン哲学を支援しながら、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが彼の庇護の元で活躍し、イタリア・ルネサンス最後の巨人と言われたミケランジェロは、14歳の頃、ロレンツォに才能を見出され、彼の学校に通い多くの芸術家と意見を交わし影響を受け、その並外れた才能を開花させた。メディチ家は、芸術の擁護者として、ルネサンス躍進の大きな力となったのである。

現在我々が知っているオペラ、ピアノ、バレーもルネサンス時代のメディチ家の支援から生まれたとされる。

また、メディチ家が支援していたプラトン・アカデミーは、メディチ家の周囲に集まった人文主義者らによる私的なサークルである。プラトン・アカデミーはフィチーノを中心に、ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコら多くの人文主義者が集い、メディチ家のロレンツォも加わって、プラトンの対話篇さながらに愛や美を巡る知的な討論した。異教的な思想が育まれ、ボッティチェッリの<プリマヴェーラ>、<ヴィーナスの誕生>もこれらの知的風土の中に生まれた。

メディチ家が単なる商人ではなく、知的で教会社会の一員であることを強調するために建てたのがラウレンツィアーナ図書館もある。

また有名なフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドゥオーモ大聖堂のドームの建設もメディチ家が支援した。このドームは当時技術不足で工事が未完成であったが、ブルネレスキが独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用され16年かけて完成したとされる。

コジモ・デ・メディチからメディチ家の代々に行われた芸術家や知識人への支援活動は、ルネサンス文化を大きく開花させ、世界史にも影響を与えた。

1492年にロレンツォが死んでからメディチ家弱体化していく。1494年にイタリア戦争が勃発し、フランス王シャルル8世がフィレンツェを攻撃した。

メディチ家はフィレンツェから追放され、サヴォナローラの神権政治が行われるが、サヴォナローラはローマ教皇から異端と断定されて急速に民衆の支持を失って処刑され、メディチ家は復活を遂げる。ローマ教皇や各国王に貸し付けた資金が不良債権化したため、ディチ銀行は経営が困難になった。各国王への貸付金は焦げ付き、回収できなくなり、メディチ銀行はいくつかの支店を閉鎖することになる。メディチ家はフィレンツェで敗北と復活を繰り返し、周辺の土地も合わせてトスカーナ公となり、1569年以降はトスカーナ大公といわれるようになる。その後は、メディチ家はトスカーナ大公の地位を世襲し、ヨーロッパ列国の王家と同列の国際的地位を保った。トスカーナ大公位は18世紀まで継続したが、結局は断絶する。

現在のメディチ家は「アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ」を最後に、メディチ家の系図が途絶えたことが通説だが、当時のトスカーナ公国を支配していた系図が途絶えたのであり、コジモ、ロレンツォを祖先としたメディチ家の子孫は、現代もメディチ家の継承者として存在する。

メディチ家が収集した美術品1000点以上が展示されているのがパラティーナ美術館がある。パラティーナ美術館内はいくつかの部屋に分かれ、各部屋にはラファエロやボッティチェリ、ルーベンスなどイタリアのルネサンス、バロック時代を代表する芸術家の作品が展示されている。