世界で一番有名な波

凶暴なまでに高く激しく、鷹の爪のような迫力ある波頭、巨大な波に飲み込まれようとする船と荒れ狂う海の中で必死に船を漕ぐ人々、それらを目の前にしつつ、嵐の中遠景に見える小さいがどっしりとした富士山まで、今でも耳に荒れ狂った波の音が聞こえそうなダイナミックなこの絵は葛飾北斎の富嶽三十六景の中の<神奈川沖浪裏>である。

富嶽三十六景の中の<神奈川沖浪裏>

江戸時代の後半に、浮世絵師の葛飾北斎が描いた木版画で、富士山をテーマとした46枚シリーズの一枚である。
一筋一筋の水の流れ、波濤のうねり、波に沿わせた舟の動き、富士山のなだらかな稜線といったものはすべて、幾重にも折り重なる対数螺旋の構成要素となっている。
タイトルは冨嶽三十六景だけど46枚あるのは、人気が高く当初の予定から10枚増えたからだそう。
特有の色感と力強い描写はみる人たちに印象深く残る。実際に多くのところでこの作品を目にすることができる。服やビールのデザインなどにも用いられているからだ。
現在まで日本を代表する作品として多くの人々から愛されていると言っても過言ではない。
この作品は他の芸術家たちにも大きなインスピレーションを与えた。印象派のクロード・モネとフィンセント・ファン・ゴッホもこの作品を持っていたとされる。特にゴッホは北斎の波を深く愛した。弟のテオに宛てた手紙に直接北斎の作品について感想を述べたものがある。 この作品は手で描いたのではなく、前述したように木版画である。このような浮世絵は一度版を作れば続けて版画を作れるから安かった。1700年代の浮世絵の価格はうどん一杯の価格と同じぐらいだったという。当時は高級芸術としては扱われなかった。「浮世絵」(うきよえ)とは、江戸時代から大正時代に掛けて描かれた、風俗を描いた絵画のことである。 この世は「憂き世」で嫌なことばかり。 それならば、ウキウキと浮かれて楽しく、この世を謳歌して暮らしたいと「浮世」の字が当てられた浮世絵が描かれるようになった。だから浮世絵には現在世の中の流れに対する肯定的な評価が描かれていた。庶民が楽しんでいる日常の楽しさが作品の中にある。

葛飾北斎の本名は「川村鉄蔵」である。宝暦10(1760)年9月23日に生まれた北斎は幼名が時太郎、後に鉄蔵となる。
北斎の画号は頻繁に改号したことで知られており、多くの書籍で30回以上の改号が行われたと紹介されている。

春朗時代

北斎は19歳のときに勝川春章(かつかわしゅんしょう)のもとに入門し、間もなく勝川春朗(しゅんろう)の名を得て、20歳のころに細判役者絵によって浮世絵の世界に登場する。
しかし、好奇心旺盛な性格から師の模倣に飽き足らず、内緒で狩野派や洋画を学んでいてついに破門される。

宗理時代

北斎は、36歳ごろから宗理(そうり)の落款(らっかん)を使用するようになる。宗理を襲名していた期間には狂歌や絵暦が流行していた背景も手伝って、高級な用紙で高度な彫りと摺りを駆使した狂歌本や狂歌摺物、絵暦が作品の中心となった。
この時期にオランダの風景版画などに影響を受け、独自の様式を確立させた年代と見なされている。
楚々とした体躯で富士額に瓜実顔の画貌をした哀愁のある女性描写は「宗理型」あるいは「宗理風」と呼ばれ、大いに賞賛された。

葛飾北斎時代

北斎にとって大きな転機は、宗理の名を門人に譲り、文化2年(1805年)から文化6年(1809年)にかけて葛飾北斎と号したときである。以後、北斎はどの画派に属することもなく、独立した絵師としての道を拓いていく。宗理期の享和年間に洋画に触れてきた北斎は、文化年間になって新たに脚光を浴び始めていた長編小説、読本の挿絵へと仕事の中心軸を移していく。北斎は、浮世絵版画においても多彩な表現を用いるようになり、名所絵や戯画などを発表した。また、肉筆画の作品も最晩年と並んで多く手がけており、美人画など幾多の名作を残している。
宗理風の様式は姿を潜め、漢画の影響を強く受けた豪快で大胆な画風へと変化している。こうした変化は江戸の流行が狂歌から読本へと移り変わり、その挿絵制作に注力し始めたためと考えられている。

戴斗時代

文化7年(1810年)に上梓した北斎としては初の木版絵手本「己痴羣夢多字画尽」に戴斗の号が使用され、以降文政2年(1819年)まで用いられた。この頃から絵手本の制作に力を入れて取り組むようになり、その傾向は最晩年まで続いた。50歳を過ぎてから、葛飾北斎はまた新たな雅号である、戴斗(たいと)を得る。北斎は関西旅行の途中、300あまりの絵手本を描いている。それをまとめたものが、後世に名を残す「北斎漫画」初編であった。そのデッサン力は評判となって以後15編も刊行されることになった。

為一時代

文政3年(1820年)から天保4年(1833年)までの長きに渡って北斎は為一の画号を用いて活動した。
この期の前半は戴斗期に引き続いて絵手本制作に熱中していたが、次第に色紙判の摺物に秀作を数多く残すようになっていく。そして、錦絵に傾注するようになり、不朽の名作を世に送り出すことになる。「富嶽三十六景」である。また、「諸国瀧廻り」、「諸国名橋奇覧」などの風景画や「江戸八景」、「景勝雪月花」などの名所絵、古典画、花鳥図など、わずか数年の期間で多岐に渡る浮世絵版画が制作された。

画狂老人卍時代

浮世絵版画で名声を得たにもかかわらず、北斎は次第に版画への熱意を失っていく。
75歳となった天保5年(1834年)3月に、北斎は富士図の集大成とも言える「富嶽百景」を上梓した。「富嶽百景」の巻末では画狂老人卍と号した北斎が初めて自跋を載せ、これまでの半生とこれからの決意を語った。老いてなお意欲は衰えず、晩年を迎えてさらに新たな世界に挑む姿は感嘆に値する。 北斎が最後に手がけたのは、肉筆画で当時の風俗ではなく、和漢の故事や宗教に基づく歴史画や物語画、あるいは動植物にモチーフを求めていた。また、独自の洋画風表現方法にチャレンジするなど、その旺盛な制作意欲は常人を超えたものといっても過言ではない。

浮世絵の黄金期を形成した四人の巨匠は以下の4人がいる。

印強烈なデフォルメで一瞬のしぐさを表現した東洲斎写楽。
成熟した女性の色香を写して、一世を風靡した喜多川歌麿。
常に新しい表現に挑戦し続け、画狂人と謳われた葛飾北斎。
詩情豊かに、四季折々の風景画や名所絵を描いた安藤広重。