偉大な作品の裏に隠されたピカソの知られざる女性たちと作品の関係

スペイン・マラガ生まれてフランスで制作活動したパブロ・ピカソ(1881~1973)の本当の名はPablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picassoである。イベリア半島文化の特徴で結婚する際に子は父母の姓を合わせることにしているが、先祖たちの姓をすべて入れてしまって整理してなかったから名前が長くなった。この長い名前を父母だけの姓にして短くするとパブロ・ルイス・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)になって、Ruizが本来の姓になる。ピカソは彼の母の姓だったが彼が19歳の時にピカソを選んでパブロ・ピカソで知られることになる。

ピカソの作品は100億を超える作品が数多くあるが、2021年5月13日、ニューヨークのオークションで、パブロ・ピカソが1932年に描いた油絵<窓辺に座る女>が1億340万ドル(約113億円)で落札された。

<窓辺に座る女>1932

またピカソの作品で最も高額で落札されたのは、1955年に描かれた<アルジェの女たち(バージョンO)>で、手数料込1億7940万ドル(約215億円)である。

この作品は当時の史上最高額でフランスの巨匠ドラクロワの<アルジェの女たち>をピカソ流に描き直したものである。

<アルジェの女たち(バージョンO)>1955
アルジェの女たち、ウジェーヌ・ドラクロワ>1834

このように新しい芸術の世界を切り開いたキュビズムの創始者のピカソの作品は今も私たちを魅了している。

ピカソは絵画だけではなく、版画、彫刻、陶磁器まで様々な分野で約15万点の作品をのこしている。歴史上最も多い作品を残した画家としてギネスブックにも載っている。

芸術家たちの中では生きている内にその才能を認められ、裕福な生活をした数少ない画家でもある。彼は若い頃天才だと思われていて、変化し続ける作風と、キュビズムの共同創始者としての革新で知られている。

ピカソは人生の中で2度結婚して3人の女性の間に4人の子を持った。しかし、ピカソは数多くの女性と交友関係を続き、この女性たちの終焉はそれほど幸福ではなかった。

ピカソの女性たちは彼の作品にどんな影響を及ぼしたのか?

92歳で亡くなるまでピカソはずっと女性との付き合いが続いていた。

ピカソは芸術家であり美術学校で教鞭をとっていた父ホセ・ルイスから幼い頃から厳しい絵の教育を受けていた。早いタッチで大胆に描いた8歳の時に描いたとされる絵みると本当に素晴らしい。

<ピカドール>ピカソ8歳

ピカソが11歳の時に描いたデッサンを見ると幼さが残っていた8歳の絵と比べ、専門家のように対象を繊細に描写している。このように絵の色々な記法を瞬時に取得できた美術の天才である。

<デッサン>ピカソ11歳

ピカソは幼い時にADHDの症状があって、学校の授業などに集中できなかったが、絵を描くときだけはものすごく集中できたという話しもある。

ピカソの父もまた独特な教育信念の持ち主でものを構造的に把握しないといけないと言って、13歳のピカソを男にすると言って娼婦のところに連れて行ったという。ピカソの初体験の相手は娼婦であった。ピカソの父はピカソに女性と愛にたいする間違った欲望を植え付けたかもしれない。また鳩を描くために鳩のはく製を作らせたり、構図のために鳩の足を折って別の角度につけさせたりしたという。

<ホセ・ルイス・イ・ブラスコ、ピカソの父>

ピカソの父ホセ・ルイスは成功した画家とは言えない。自分で成し遂げなかった夢をピカソに託すために厳しい教育を行ったかも知れない。対象を写実的に描写してその中に意味を与える古典的でアカデミックな画風の絵を強制的に描かせた。ピカアソが15歳と16歳の時に描いた絵を見ると2つの絵に共通的に登場する男は父ホセ・ルイスである。

<初聖体拝領>1896
<科学と慈愛>1897

両方の絵の主題も父が決めてピカソに描かせた作品である。<科学と慈愛>の作品で色々受賞することになり、父はこれ以上絵を描かないとして、自分の絵具をピカソにあげたという。

父は自分の息子が自分自身の能力を超えたことを知り、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学させるが、ピカソはこれ以上教育を受ける必要がないとして入学して2年で中退する。このことで父子関係が拗れてピカソは家を出ることになる。

1899年18歳の時にスペインで初の展示会を開く。新鮮な画風のピカソの作品は評論家たちにも好評を得て、1900年パリ博覧会のスペイン館に<Last Moments>ドローイング作品が出品される。

<Studies and Heads>1899
< Portrait of Carlos Casagemas>1899

<Last Moments>1899

この時にピカソは友人カルロス・カサヘマスとパリを初めて訪れる。ピカソは19歳でスペインを出て、フランスのパリに住んで、一流の芸術家たちが集まる場所で貧しい留学生生活を始めた。ここで、彼は一日中美術館と展覧会を巡り、偉大な芸術家たちの作品を熱心に探求した。この時期、ピカソは自分の芸術の世界を本格的に築き始めたとされる。

<左:ピカソ、中央:フェルナンデス、右:カサへマス>

この時にカサヘマスは、同じくモデルのジェルメーヌに恋をしてしまうが、すでに人妻だったジェルメーヌはカサヘマスに振り向かず、傷心のカサヘマスはジェルメーヌと無理心中しようとして失敗し、自殺してしまう。親友の死を悼んだピカソは、1903年に、画面全体が青に覆われた大作<人生(La Vie)>を描く。左側に描かれている裸で寄り添っている男女は自殺した親友のカサヘマスと恋人のジェルメールである。

<The Death of Casagemas>1901
<人生(La Vie)>1903

ピカソの「青の時代(1901-1904)」である。

ピカソとジェルメーヌは互いに慰めるうちに関係を持つことになる。カサヘマスが拳銃自殺で非常に深刻なうつ病に苦しんでいた。ピカソは作品のほとんどを青と緑で描き、貧困、孤独、苦悩の場面を表現した。この時期の作品を見ると、なぜ「青の時代」と呼ばれるのかがわかる。

<Self Portrait>1901
<The Blind Man’s Meal(盲人の食事)>1903

しかし、1904年ピカソはモンマルトルに住み始めて、美しいモデルであるフェルナンド・オリヴィエに出会って、ピカソは青の時代からは想像もできないエネルギーに溢れた明るい絵を多く描くようになる。ピカソはオリヴィエに恋をし、うつ病を克服して「ばら色の時代(1904-1906)」に突入する。

<フェルナンド・オリヴィエ>

オリヴィエは18歳に結婚をした人妻だったが、暴力的だった夫から逃げてモデルとして生計を立てていたころにピカソと出会った。オリヴィエは教養のある女性で、ピカソにフランス語を教えたり、精神的な安定を与えてひたすら絵を描くようにピカソを仕向けて、ピカソも愛情を注いでいて、少しずつ精神的にも安定していた。

< Family of Saltimbanques, >1905
< At the Lapin Agile>1905
<Garçonala la Pipe”(パイプを持つ少年)>1905

描かれているのは左手にパイプを持ったパリの少年で、頭には花輪を付けている。 この絵を描きはじめた頃、ピカソは1ヶ月ほど制作を一時中断していて、その間に少年の頭に花輪を描くことを考えたそうだ。

<The Girl on the ball”(玉乗りの曲芸師)>1905
<ガートル―ド・スタインの肖像>1906

この作品はどこか顔が仮面のように描かれている。特に目はイベリア古代彫刻にインスピレーションを受けてアーモンド形で描かれている。

ピカソは様々なものからインスピレーションを受け新しい表現に結び付けていく。

この時期の作品にはベージュ、ピンク、赤などの温かい色で描かれた愛らしい姿が見られる。

青の時代とははっきりと異なる雰囲気が感じられる。この時にヨーロッパ美術とは異なるアフリカの原始美術から深い影響を受け、自分の世界を作り出して20世紀美術を覆す作品を出す。 色彩に焦点を当てたマティスとは異なり、ピカソは形に焦点を当て、キュビズム時代のドアを開ける芸術的な技法を新たに作った。キュビズムは、2Dのキャンバスに立体を表現するために物体を複数の視点から分解し、再び1つに組み立てる衝撃的な表現方法である。この方法でピカソは1907年にキュビズムの最も有名な作品である<アヴィニョンの娘たち>を完成させた。「アフリカ彫刻の時代(1907-1909)」である。

<Les Demoiselles d’Avignon>1907

娼婦宿のあるスペインのバルセロナ、アビニヨー通りから命名されたこの大作は、娼窟を描いたものである。左側の女性の横顔は古代エジプト彫刻、中央の2人の顔には、イベリア彫刻(古代スペイン彫刻)、また、グロテスクに歪曲された右の2人の顔には、アフリカ彫刻の影響が見え隠れしている。

この作品は透視法と明暗が完全に無視されており、絵の全体的な視点は正面だが、下の物体は上から見た視点で描かれている。女性たちの顔と体は過度に歪んでおり、最も右の女性を見ると、背中が見える後ろ向きの姿勢で顔は完全に逆に曲がっている。顔はアフリカの奇怪な仮面のように描かれている。彼は本当に親しい数人の友人にだけこの絵を見せたが、彼らの反応は決して良くなかった。ピカソが狂ったとも言われたそうだ。

当時、写真技術が進化し、現実の世界をキャンバスに再現する芸術に本当に意味があるのかという挑戦が始まっていた。それをそのまま描くのであれば、写真を撮る方が良いだろうという議論である。この時、ピカソは形を完全に変える新しい方法を作り出し、芸術が新しい方向に進む手助けをした。

<アヴィニョンの娘たち>の後、ピカソはマティスを追い越し、美術界の中心に立った。ピカソは色調を最小限にし、形状を無限に分割した分析的キュビズムを試みたが、何を描いているのかはわからなかった。「分析的キュビズム(1909~1912)」時代である。分析的キュビズムはある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。

<フェルナンドの肖像>1909
<Girl with a mandolin”(マンドリンを持つ少女)>1910

ピカソはオリヴィエと同棲している間にも他の女性たちとも会っていた。オリヴィエも多くの男性と会っていたため、ピカソはオリヴィエに対する執着が強かった。オリヴィエは自分の友達のエヴァ・グエルをピカソに紹介してピカソから逃れようとした。

エヴァ・グエルはオリヴィエの友達であり、同僚の画家ルイ・マルクーシの恋人だった。ピカソは九年にわたるフェルナンド・オリヴィエと同居生活に終止符を打ち、エヴァ・グエルを選ぶことになる。

<エヴァ・グエル>
<Ma Jolie>1912

<Ma Jolie(マ・ジョリ)>は、ギター演奏しているエヴァ・グエルの姿を描いたものだ。
肌がすごく白くて体が弱かったエヴァは出会って3年後の30歳の若さで亡くなる。

その後、第一次世界大戦まで経験し、ピカソは次第に沈んでいき、実験的な作品を止め、現実主義に戻り、周囲の風景を描くことに専念した。

解体が進み、キュビズムは何が描かれているのか判別がつきにくくなっていた。総合的キュビズムは、文字、新聞の切り抜きや木目を印刷した壁紙、額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的で身近な世界にあるものが絵画に導入された。「総合的キュビズム (1912~1918)」である。

そこで再び現実との接点を得る方法として、印刷物などを画面に張り付ける「パピエ・コレ」というコラージュ技法が取り入れられ、平面的ではあるが層化した空間が作り出された。
抑えられた色彩表現から色彩が復活して洗練された表現になったのである。

<Bottle of Marc de Bourgogne, Wineglass, and Newspaper”(ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙)>1913

1917年、ジャン・コクトーの依頼で「ロシア・バレエ団」の美術、衣装を手掛けることになる。

その公演に同行しパリ、バルセロナ、ローマなどを回りそこで出会ったバレリーナ「オルガ・コクローヴァ」と翌年1918年結婚することになる。

<オルガ・コクローヴァ>
<Portrait of Olga in an Armchair>1917

オルガはロシアの貴族出身であり、ピカソも上流階級との交流が増え、ピカソの作品は飛躍的に販路が広がっていって破格的な価格で売れていた。そして生まれた子供(パウロ)とオルガをモデルに<母と子>を描くが、ピカソは古代ローマやルネサンスなどの古典様式に大変感銘を受け、自身の作品に古典様式を導入しはじめしっとりした量感を持たせた新古典主義のスタイルに変更した。

<Mother and child(母と子)>1921
<Mother and child(母と子)>1921
<Two women running on the beach(海辺を走る2人の女)>1922
<Paul sur une âne(ロバに乗ったパウロ)>1923
<Paul en arlequin(アルルカンに扮したパウロ)>1924
<Paul en pierrot(ピエロに扮したパウロ)>1925

ピカソは非常に家庭的で献身的な結婚生活を送っていたが、時間が経つに連れ、結婚生活と上流社会の交流が頻繁だったオルガにも疲れていた。ピカソが浮気をすることを知っていたオルガのピカソへの干渉がひどくなることにピカソの心は段々と冷めていた。

この後、ピカソは「シュルレアリスムの時代(1925~1936)」を迎える。シュルレアリスム(超現実主義)とは1924年に「André Breton(アンドレ・ブルドン)」らによって始められた芸術運動で、人間の奥底に隠された無意識や夢の世界に芸術表現の領域を拡げた。ピカソは超現実主義者たちに刺激を受け、人物を現実には存在しないであろう非現実的な形態に変えて描くようになる。想像力が駆使された超現実主義的な手法でピカソ独自の世界が展開された時代である。

<The three dancer”(三人のダンサー)>1925

オルガに対する不満が大きく膨らんだ時に描かれたと言われている作品で、ピカソの不安定な精神状態が反映されていると言われている。

新古典主義の作風がガラッと変わり、左のダンサーは怪物のように顔が変形され、中央で踊るダンサーは、十字架にかけられたようなポーズをしている。右のダンサーは、死亡した友人のシルエットが描かれ、二重の人体からなっている。

ピカソが45歳になった1927年にピカソ作品のモデルで最も有名な愛人になる当時17歳の健康で官能あふれた少女マリー・テレーズ・ウォルターと出会う。マリーは超現実主義ときの傑作< Girl before a Mirror (鏡の前の少女) >のモデルだった。 フェルナンドとエヴァ、オルガが茶色の髪を持っていたのとは異なり、マリーは金髪だったという。彼女は1927年からおよそ1935年までピカソの愛人兼モデルだった。

<マリー・テレーズ・ウォルター>
< Girl before a Mirror (鏡の前の少女) >1932

ピカソはオルガとの結婚生活をしていながら、マリーとも付き合っていてオルガはこれに対して怒っていた。その時のオルガに対するピカソのつらさとオルガのピカソへの怒りが感じられる作品がある。オルガはピカソの浮気によって神経衰弱になったという。

<La Femme au stylet>1931

マリーはピカソの作品では金髪で明るく陽気な印象を受ける。エロティシズムの要素を含んだ数多くの作品はマリーの影響である。ピカソとマリーの間で娘「マーヤ」が生まれる。

<The Dream >1932

ピカソはオルガと結婚生活を維持しながら、マリーとも会っている1936年、写真家として活躍していた知的なドラ・マールに惹かれ、彼女とも付き合うことになる。

<ドラ・マール>

1937年、スペインで恐ろしい出来事が起こる。第二次世界大戦が始まる直前、スペインは内戦に分かれ、その際にフランコの反乱軍を支援していたドイツのナチ軍が、小さな町であるゲルニカに大規模な爆撃を行った事件が起きた。この爆撃で、町の住民の3分の1が死亡または負傷した。戦争の準備中だったドイツ軍が戦闘機と爆弾の性能をテストするために行ったものとされる。この出来事に怒ったピカソが完成させた大作が<ゲルニカ>である。この絵は、4時間にわたり50トンの爆弾が落とされ、村人たちが無防備のまま虐殺される様子が描かれていて、画面右端の炎に包まれている女性、殺された子どもを抱いて絶叫している左端の女性、地面をはうように逃げる女性、それぞれの姿を大胆に変形して動作や表情を強調することにより感情に切迫感をもたせている。

<ゲルニカ>1937

右の叫んでいるような女性がドラ・マールで左の子供を抱いて泣いている女性がマリー・テレーズとマーヤがモデルになっているという話もある。

似たような作品として、1951年に描かれた<Massacre in Korea>がある。この作品は、スペイン内戦のように同じ民族同士が戦争を繰り広げた朝鮮戦争の悲劇を描いたもので、銃口の前で震える女性と子供たちの姿が、戦争の惨さを表している。

< Massacre in Korea >1951

<ゲルニカ>は、ドラ・マールの助言なしには生まれなかったとされる。彼女はピカソの<ゲルニカ>の時代を一緒にしていて、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に<weeping woman(泣く女)>、<Dora Maar(ドラ・マール)の肖像画>に登場する。

<weeping woman(泣く女)>1937
<Dora Maar(ドラ・マール)の肖像画>1937
<山羊の頭骨を持つ帽子の女>1939

第二次世界大戦を経験したピカソは、共産主義に加入し、政治的な立場を明らかにし始めた。彼はこの時期にも、作品が自分を生かしてくれると信じ、死ぬまで制作を続け、忙しいスケジュールを維持したが、彼に対する作品に関する人々の関心は以前とは異なった。

ピカソはこの時に第二次世界大戦中に出会ったフランソワーズ・ジローと付き合っていた。彼女は非常に若くて美しい女流画家で20歳の時に63歳のピカソと一緒に暮らす。完璧主義者であり、独占力が強かったフランソワーズは、ピカソの間で息子クロードと娘パロマを生む。

<フランソワーズ・ジロー>
<Woman Flower>1946

フランソワーズ・ジローに対するピカソの態度は今までの女性たちとは違い格別だったという。

<フランソワーズ・ジローとピカソ>
<フランソワーズ・ジローとピカソ>

ピカソがオルガと離婚をしていなかったからオルガは実際ジローに嫌がらせをしたという。ジローはピカソに別れを告げて2人の子供を連れてピカソと分かれる。

ピカソはジローの画家としての活動を妨げるが、ジローはアメリカに移住して画家活動をし、ピカソとの生活を綴った本を出版する。このことでピカソと裁判沙汰になるが結局ピカソが敗訴する。

ピカソはジローと分かれた後、陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期になるが、この時に72歳で26歳のジャクリーヌ・ロックと出会う。オルガが64歳で死亡したため、1961年ジャクリーヌ・ロックと結婚する。

<ジャクリーヌ・ロック>

ジャクリーヌはピカソをリスペクトし、尽くしたという。ドキュメンタリー<ミステリアス・ピカソ 天才の秘密>の制作の際もピカソに献身的だったという。

ピカソは死ぬまで数多くのジャクリーヌの絵を描いた。

<JACQUELINE WITH FLOWERS>1954
<JACQUELINE SQUATTING>1954
<JACQUELINE IN TURKISH COSTUME >1955
<PORTRAIT OF JACQUELINE>1957
<JACQUELINE SAT WITH KABUL>1962
<SEATED WOMAN (JACQUELINE)>1971

ピカソが亡くなる1年前に完成させた作品「死を前にする自画像」を見ると、絵の中の瞳は何かを悟った賢者のようにも見える一方で、過去の人生への後悔や死への恐れを感じさせる。

<Self-Portrait>1972
<Self-Portrait>1972

あまりにもシンプルであるが故に、この巨匠の偉大さが感じられるす。このように、生涯を通じて作品を残し、人生の苦悩を描き出したピカソは、1973年にフランスで息を引き取った。

彼は91歳で亡くなるまで時代背景、愛人、感情などでまるで全く違う人が書いたような絵画を残してきていた。彼が生涯で書き残した作品数は油絵だけで1万3千点、全部でなんと約14万7800点にもなる。彼は最も生涯で作品を残した画家であり最も多彩な絵画をこの世に残しアートに新しいことを創造してきた。数多くの女性との愛の物語だけではなく、彼の作品を知ることで彼を知り、偉大な芸術家として今も我々のこころに生き続けていることは間違いない。

ジョン・リチャードソンの「ピカソⅠ」参照