知れば知るほどもっと知りたくなるレオナルド・ダ・ヴィンチ

イタリアの画家、彫刻家、建築家、芸術家、音楽家、地質学者、舞台演出家、技術者などあらゆる分野に精通したレオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」と呼ばれる人物である。ルネサンス時代の代表的な人物として評価されている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品には誰もが知る<モナ・リザ>、<最後の晩餐>などがあり、同じ時期のミケランジェロ・ブオナローティとラファエロ・サンティと一緒に語られることが多い。
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日、フィレンツェ共和国トスカーナのヴィンチ村で有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として生まれた。呼称として「ダ・ヴィンチ」と称することがあるが、これは固有の苗字というより、「ヴィンチ村出身」であることを意味している。

レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていないが、生まれてから5年はヴィンチの村落で母親とともに暮らして1457年からは父親の家族とヴィンチの都市部で過ごしたとされる。
1466年に、14歳だったレオナルドはフィレンツェで最も優れた工房の一つを主宰していた芸術家アンドレア・デル・ヴェッロッキオに弟子入りする。ヴェロッキオはフレンツェを代表するドナテッロの一番優秀な弟子で彫刻や絵画など多方面で才能があった。ドナテッロの死後、ヴェロッキオはナテッロの後継者としてメディチ家から支援される美術家になった。
レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など様々な分野に及んでいたという。
師匠のヴェロッキオ以外にもサンドロ・ボッティチェッリなどの色々な芸術家たちの作品から影響を受けて能力を発展させていた。
<キリストの洗礼>はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師匠のヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったとされるが、これは一つの説であり、この後もヴェロッキオは作品活動を続けている。

<キリストの洗礼>1472-1475
「レオナルド・ダ・ヴィンチが受け持った箇所」

レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスターの資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった。
最高水準の絵の実力も持っていたレオナルドだが、一つ欠点があって、自分が請け負った作品を途中で止めることが多かった。作品が気に入らなければやっていた作業を途中で止めていた。
1482年からレオナルドはミラノ公国で活動した。当時ミラノ公国を統治していたルドヴィーコ・スフォルツァは、色々な芸術家を支援していた。スフォルツァの支援を受けたレオナルドは、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で描いた<岩窟の聖母>は、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している。

<岩窟の聖母>1495-1508、ナショナル・ギャラリー所蔵
<岩窟の聖母>1495-1508、ルーヴル美術館所蔵

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画である<最後の晩餐>(1495-1498)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である。通常、壁画や天井画にはフレスコ画の技法を用いるが、レオナルドの<最後の晩餐>はフレスコ画ではなくテンペラ画の技法で描いた。フレスコ画は漆喰を塗り、それが乾ききる前に顔料を載せて壁自体をその色にする技法だが、レオナルドは作業時間の制約を嫌い、写実的な絵画とするために重ね塗りは必要不可欠であることから、完全に乾いた壁の上にテンペラ画の技法で描いた。テンペラは卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶き、キャンバスや木の板などに描く技法であり、時間的制約は無く、重ね塗り、書き直しも可能であるが、テンペラや油絵は温度や湿度の変化に弱いため、壁画には向いていない。レオナルドは、壁面からの湿度などによる浸食を防ぐために、乾いた漆喰の上に薄い膜を作りその上に絵を描いた。しかし、この方法は結果失敗し、湿度の高い気候も手伝い、激しい浸食と損傷を受ける結果となった。状態はさらに悪化して、1977年修復前には殆ど作品が見えないほどだった。1977年から1999年5月28日にかけて大規模な修復作業が行われたが、この修復は洗浄作業のみで、表面に付着した汚れなどの除去と、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が行なわれた。その結果、後世の修復家の加筆は取り除かれ、レオナルドのオリジナルの線と色彩がよみがえったが、オリジナルが全く残っていない箇所もかなりある。たとえば、イエスの向かって右に位置する大ヤコブの体部などは、オリジナルの絵具がほとんど失われ、壁の下地が露出している。
サイズは縦880 ㎝、横460 ㎝で、一般人の背より2~3倍大きい作品である。キリストが自身の死を予言した「パンの断片伝説」に基づいて、パンを裂いて12使徒たちに分け与えているところを描いている。

<最後の晩餐>1495-1498

レオナルドはミラノ公国でスフォルツァの専属画家であり、軍事技術者、建築家としても働きながら17年間滞在していたが、この時期に様々な分野で活動していたから「万能の天才」と称されることになった。 第二次イタリア戦争が勃発し、1499年フランス王国のルイ12世がミラノを占領した。レオナルドはヴェネツィアへと避難し、1500年に再び故郷のフィレンツェに帰還した。サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院で工房を与えられ、<聖アンナと聖母子>の習作ともいわれる<聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ>を描いたとされる。 

<聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ>1499-1500頃

<聖アンナと聖母子>1508頃

レオナルドは、くの研究スケッチと観察記録を残していた。
レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と自然哲学が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた。レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、レオナルドは左利きであったため、単に右から左へと文字を書くほうが楽だったいう説もある。
レオナルドの手跡にはまだ世になかったヘリコプターのようなものや人と動物の解剖図も多かった。画家は解剖学に無知ではいけないと考えたレオナルドは男女の死体30体以上を解剖したとされる。人体の内部を詳細に観察してスケッチに残していた。

1503年レオナルドはフィレンツェ政庁舎の壁画作業を依頼され<アンギアーリの戦い>の作業を始めるが未完成に終わる。未完成に終わった<アンギアーリの戦い>を1603年にルーベンスが<アンギアーリの戦い>の模写を描いた時はレオナルドの壁画は失われていたので、1558年のロレンツォ・ツァッキアによる版画を元にしている。

ルーベンスの<アンギアーリの戦い>の模写、1603

この時に隣の壁にはミケランジェロが<カッシナの戦い>を作業していた。当時51歳だったレオナルドとは違い28歳だった若いミケランジェロは相反する雰囲気の作品を見せ、世代交代を知らせたとされる。

ミケランジェロによる<カッシナの戦い>下絵(サンガッロによる模写)

同時に2人の天才が作業していて展示されることになったかも知れなかった二つの作品は、結果的に二つの作品ともに未完成に終わってしまった。それにもかかわらず二つの作品は未完成のまま1512年までフィレンツェで展示されていて、多くの芸術家たちが作品を見るために集まってきた。
1513年9月から1516年にかけて、レオナルドはヴァチカンのベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若きラファエロが活躍していた場所でもあった。
レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられ、13年前から作業していた<モナ・リザ>に専念しながら晩年を過ごした。

<モナ・リザ>1503-1519頃

<モナ・リザ>は、レオナルドの代表作であり、同時に全世界で一番有名な作品とも言える。<モナ・リザ>は、現在パリのルーブル美術館に展示されているが、フランス政府の発表によると<モナ・リザ>の経済的価値は4兆円を超える。このような価値になる理由はルーブル美術館の来訪者数は年間900万人前後でこの中の85%ぐらいが<モナ・リザ>を見るためにルーブル美術館を訪れるという。

イタリアが生んだ「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチは絵画、建築、科学、医学など様々な分野で人類史に大きな業績を残していたことには間違いない。