黄金の光の画家グスタフ・クリムト

ユーゲントシュティール様式を代表する画家である、将来性のある若い画家たちの支援者であり、世界的有名な作品<接吻>を始め、有数の作品を発表したグスタフ・クリムト。

グスタフ・クリムト(1862年7月14日~1918年2月6日)は、ウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。

14歳のときに、オーストリア工芸博物館付属工芸学校に入学し、在学中に弟・エルンストと同級生のフランツ・マッチュとともに装飾会社芸術家商会 (Künstlercompagnie) を設立する。当時のウィーンは建築ラッシュでブルグ劇場の壁画やウィーン美術史美術館の壁画などの制作を担当し、クリムトたちも成功を収めていたが、弟のエルンストが死去により、芸術家商会は解散する。 クリムトの父と弟のエルンストの両方が亡くなったため、クリムトはエルンストの家族を養うことになった。家族の悲劇はクリムトの芸術的ビジョンに影響を与え、新しい個人的なスタイルのきっかけになる。

<裸のヴベリタス>1899

<裸体のベリタス>でクリムトは、ハプスブルグの政治とオーストリア社会の両方を批判、その当時のすべての政治的・社会的問題に嫌気がさし、無視するかのように女性の裸体を描いた。

1890年初頭、クリムトはオーストリアのファッションデザイナーのエミーリエ・フレーゲと出会い、彼女とは生涯付き合うようになる。

クリムトの代表作<接吻>のモデルとなっているのはエミーリエであると言われているが定かではない。彼女は弟エルンストの妻の妹であり、ブティック経営で成功した女性実業家だった。

1897年に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。

分離派を代表する作品は、ギリシャ神話の正義、知恵、芸術の女神で、クリムトが1898年に制作した<パラス・アテナ>である。

<パラス・アテナ>1898

<ユディトI>1901

<ユディトI >は、ホロフェルネスの首をはね、手に持つヘブライ人寡婦ユディトの姿を描いたもので、クリムトは切断されたホロフェルネスの首を手に持つユディトが恍惚状態になっている瞬間の表情を描こうとしたとされる。

1894年にクリムトはウィーン大学の大講堂の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。
<医学>、<哲学>、<法学>の3作品が理性を司る大学の意向と全く正反対のポルノグラフィティ的だということで大論争となる。結局クリムトは、この天井画3作品の契約を破棄し、報酬を返却が、この事件はクリムトの名を高めるきっかけとなった。

残念ながらこの作品は1945年5月にナチス・ドイツ軍が退却中にインメンドルフ城が焼却されたときにすべて破壊されて現存しない。

<法学>1899-1907
<医学>1899-1907
<哲学>1899-1907

クリムトが1900年前後に制作したウィーン大学の大講堂の天井装飾画はポルノグラフィティ的だとして大変な批判を浴びる。ウィーン大学の大講堂の天井装飾画事件以来、クリムトは公的な仕事を一切受けることが無くなったが、個人的なパトロンたちは、クリムトに対して好意的な批評と金銭的な援助を行うことになる。これによりクリムトは黄金時代を迎えるようになった。

以前からクリムトは<パラス・アテナ>や<ユディトI >で金箔を使用していたが、<アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I >、<接吻>などの黄金時代に制作した金箔作品がクリムトの代表作となる。 1902年、第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作<ベートーヴェン・フリーズ>を出品して芸術家として頂点に至ったとされる。装飾性と金色を多く使っていた<ベートーヴェン・フリーズ>は、クリムトの黄金時代の始まりだとしても過言ではない。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。この後、<アデーレ=ブロッホ・バウアーの肖像>、<接吻>など金箔を使って描いたセレブたちの注文肖像画「黄金時代」で大成功し、まさにこの時代がクリムト全盛期だった。この時期の作品は、強力な象徴と精巧な装飾を使用して、女性の官能美に賛辞を送る。黄金時代の後期には色彩を強調する装飾・表現主義様式に回帰する。

<ベートーヴェン・フリーズ> ※部分「敵対する勢力」1901-1902
<ベートーヴェン・フリーズ>※部分 「歓喜の歌」1901-1902

<アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I>1907

<アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ>1912

<ダナエ>1907-1908

クリムトの<ダナエ>は一般的なダナエを主題にした絵画とは異なり、窓や上方から金貨のようなものが降り注ぐような形ではなく、黄金の雨に姿を変えたゼウスは、ダナエの太もも間に黄金の精子と金貨が混じった状態で表現されている。ただし、かかとにストッキングがかかっていることや左手の位置から、自慰行為であるとの指摘もあり、精子と金貨の混じった黄金の雨はダナエの妄想であるともいわれている。ダナエの頬は紅潮し、愛のエクスタシーの瞬間を表現したと言われている。

<接吻>1907-1908

クリムトの代表作<接吻>に登場する女性の正体については様々な意見がある。クリムト生涯の著名な愛人はエミーリエ・フレーゲとかアデーレ=ブロッホ・バウアーなどの名前も上げられるが、女性の顔の形はクリムトが描いた他の作品からも類似して発見されることから特定の人物と断定することは難しい。構図の引用元は19世紀のロマン主義画家フランチェスコ・アイエツの<接吻>であると言われている。
<接吻>の作品の男女は花畑に埋もれている姿で描かれている。男の顔は観客から見えないように隠されており、男の顔を下向きにして女の頬に唇を押し付け、男の手が女の顔を包み込んでいる。装飾的な部分では男は正方形と長方形が多いが、女は滑らかな曲線と花柄のターンが主である。2人を包んでいる金色の後光は女の素足のところで終わりになり、女の少し曲がった足のつま先が花畑を掘り下げているように見える。
しかし、サン・ヴィターレ聖堂のビザンツ様式のモザイク画を連想させる黄金の背景をこの男女が振り落とそうとしているようにも見える。

クリムトはこの絵で、アポロンがダフネにキスをする瞬間をオヴィッドの「変身」の物語に倣って表現したとも言われている。

この絵に見られるように、抱かれた女性はわずかに半透明で、物語にあるように、消えていく、あるいは消失していく様子を示している。

クリムトの作品は、女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描いて甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる。

<ヘレーネ・クリムトの肖像>1898

<エミーリエ・フレーゲの肖像>1902

<希望I >1903

<水蛇I >1904-1907

<水蛇Ⅱ>1904

<女性の三時代>1905

<マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像>1905

<フリッツア・リードラーの肖像>1906

<メーダ・プリマヴェージの肖像>1912

<バージン>1913

クリムトのもとには、悩める女性モデルがいつも集まっていたという。生活費が無いモデルにお金を出したり、弟子のエゴン・シーレが描いた絵を買って、生活を支えたり、モデルたちの愚痴も聞いたりして面倒を見ていたという。

クリムトの中心となるモチーフは女性で、率直な愛や性愛表現が特徴であるが、以外にも風景画も描いている。

<死と生>1915

クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。

<白樺のある農家>1900
<白樺の林>1903
<黄金の林檎の木>1904
<アッター湖畔のウンターアッハの斜面>1916

その代表作でもある<アッター湖の島>は、クリムトの風景画のなかでもっとも大胆な構図をとったもののひとつであり、クリムトがアメリカで一躍脚光を浴びるきっかけをつくったとされている。

<アッター湖の島>1901-1902

クリムトは生涯上流階級の女性の肖像画を描いた。ここ数年、<アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I>は、ニューヨークのノイエ・ギャラリーのオーナーであるロナルド・ローダーが1億3500万ドルで購入して最も高価な美術作品の一つだった。肖像画だけでなくドローイングも素晴らしい。クリムトが残した作品数は約250点、ドローイングは3千点余りである。その膨大な量だけでなく、歴史上挙げられる他のドローイングとも肩を並べるほど優れているという点もその意義があると思われる。

1918年 クリムトは新たな表現を模索する中、急に病に倒れて55歳でこの世をさることになるが、エミーリエ・フレーゲ、アルマ・マーラー、アデーレ・ブロッホ=バウアー、ハンス・ベーラーなど数多くの女性に囲まれた彼らしい人生だったと言えるだろう。