パリのルーヴル美術館とオルセー美術館を楽しく効率よく巡るコースの紹介


西洋美術を古典、近代、現代と大きく区分けしたら、主にルーヴル美術館は古典美術を、オルセー美術館は19世紀から20世紀初頭のフランスの印象派やポスト印象派の作品中心の近代美術を、ポンピドゥーセンターは近代美術と現代美術を展示していて、美術の歴史を年代別に作品を分けて展示している都市は世界で唯一にパリしかないと思う。

ルーヴル美術館はパリの1区に位置していて、パリ中心部から地下鉄や徒歩でアクセスできる。

https://maps.app.goo.gl/wSXo1T5VcoryeSLy7

ルーヴル美術館の所蔵作品はおおよそ61万点(2019年基準)もあり、その中で約38,000点以上の美術品や歴史的な遺物を展示しているから一日では全てのコレクションを見ることは難しい。ルーヴル美術館は、毎年1,000万人ぐらいの入場者が訪れるからまさに世界一の美術館である。

最近ではウェブサイトでも所蔵作品を無料で公開しているから「collections.louvre.fr」こちらからでも所蔵作品を見ることができる。

ルーヴル美術館の位置をパリの地図から確認するとほぼ真ん中に位置している。ルーヴル美術館は元々美術館ではなく、パリ防衛に使われた要塞だった。パリが大きくなるにつれて要塞としてのその機能がなくなり、ルネサンス時代のフランス王フィリップ2世が12世紀に、もともとは要塞として建設したルーヴル城(ルーヴル宮殿)に収容されることになる。フランソワ1世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿は、1682年ルイ14世がベルサイユ宮殿を使うことになり、王室美術品コレクションの収蔵、展示場所と変わり、1789年フランス革命によってルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定され、1793年ルーヴル美術館として正式に開館した。

ルーヴル美術館は、大きく「リシュリュー翼」、「シュリー翼」、「ドゥノン翼」と3つのブロックに分かれている。各ブロックは半地下から3階まで(ドゥノン翼は2階まで)あり、ブロックごとに入口があって、チケットを見せて入場する。内では繋がっているから各翼を行き来できる。
3つのブロックの中心にあり、アクセスポイントになるのがガラスのピラミッドの真下に位置する「ナポレオンホール」になる。チケットの購入はここでできる。

2023年基準、入場料は15ユーロ/1人、事前にオンラインから入場券を購入すると17ユーロ、オディオガイドは別途5ユーロかかる。毎週火曜日と休日は休館している。

パリの観光客がよく購入するパリミュージアムパスがあると列に並ばないで入場できる。パリミュージアムパスは、パリ市内とパリ郊外にある50以上の美術館や観光スポットで利用できるフリーパスだ。1か所に1回限りだが待ち時間なく入場できるようになり、有効期限内に多くの施設を訪れるほどお得になるからフランス旅行を考えている人にはお勧めである。

https://parispass.com/ja/paris-museum-pass

ルーヴル美術館は、ミュージアムパスがあっても事前に入場のオンライン予約が必要だから気を付けないといけない。

https://www.louvre.fr/

おすすめのコースはシュリー翼から入ってドゥノン翼に出るコースで有名な作品を多く見られるコースである。
シュリー翼に入ると色々な彫刻を目にすることができるが、進んでいくとルーヴル3大美女の一つ「ミロのヴィーナス」(シュリー翼1F)がある。ミロのヴィーナスは世の中で一番有名な彫刻でもあり、世界で一番模作が多い彫刻でもある。ミロのヴィーナスは、1820年、エーゲ海のミロス島で発見されて、発見当初は分断された状態だった。片脚に体重をかけているコントラポストの形をしている。ミロのヴィーナスは発見場所にちなんだ通称であり、正式名称は「アフロディーテ」である。
布が落ちていく瞬間の脚を閉じる仕草やS字のボディラインはヘレニズム美術の傑作と言われている作品である。

<アフロディーテ(ミロのヴィーナス)>

高さは203cmで材質は大理石である。発見された時に一緒に出て来た台座に記述があったことから、作者はアンティオキアのアレクサンドロス(Alexandros of Antioch) と考えられている。足元からへそまでと頭頂部までの長さ、へそから首までと頭頂部、それぞれの比率は、1対1.618となっていてほぼ黄金比である。
発見場所は洞窟で、その入口は岩や石で覆われていた。ヴィーナス像の周囲には欠落している両腕はなかったという。 色々な説があるが、右手で下半身をおおう衣をおさえていて、リンゴを左手で握っているポーズが有力だ。

ミロのヴィーナスを見てから中に進むとダリュという階段がある。この階段の先を見上げるとまたルーヴル3大美女の一つの「サモトラケのニケ」(ドゥノン翼1F)がある。
翼のはえた勝利の女神ニケ(ニーケー)が空から船のへさきへと降り立った様子を表現した彫像である。

1863年、エーゲ海東北のサモトラケ島で発見されたヘレニズム彫刻の傑作である。パロス島の大理石で作られた女性像トルソと118点の断片となった翼の部分が見つかった。これを復元したところ有翼の勝利の女神「ニケの像」であることが分かった。
大きく広げた翼、風を受けてなびき、水に濡れた薄い衣に透けて見える肌。繊細な質感の表現と優雅で神秘的、ダイナミックな動きは見る人の心を惹きつけている。

展示方法も「ミロのヴィーナス」は前後左右が全部見えるように展示しているが、「サモトラケのニケ」は、元の山の上の神殿にあってニケ像を見るには山を登らないといけなかったように階段を上って見上げるように展示している。ルーヴル美術館のキュレーションの素晴らしさだと言える。

「サモトラケのニケ」を見てドゥノン翼に入るとルーヴル自慢の絵画コレクション、グランドギャラリーがある。グランドギャラリーで狩りの女神と鹿のブロンズ像が見えたら、右手の展示室へ行くと正面の壁には、このコースの最大の見どころルーヴルが誇る傑作3大美女の一つのレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が展示されている。

<モナ・リザ>1503-1519

一般的にはモナ・リザと知られているが、フランスでは<ラ・ジョコンダ (la Gioconda)>が通じやすいという。
<モナ・リザ>の特徴のひとつは、レオナルド・ダ・ヴィンチの卓越した技術にある。<モナ・リザ>は指の腹を使って描く「スフマート」という技法で描いたとされています。また、遠くのものは近くのものよりぼやけて見えることを利用した「空気遠近法」という技法で背景を表現している。しかし、近づけないから詳細にみることはできない。
<モナ・リザ>の正面にある<カナの婚礼>という大きな絵がある方の出口から出てグランドギャラリーに進むとレオナルド・ダ・ヴィンチの<岩窟の聖母子>、<聖アンナと聖母子>、<洗礼者聖ヨハネ>作品が並んでいる。こちらは近づいてみることができるからこちらでじっくり見るのもよいと思う。

<岩窟の聖母子>1483-1486

<聖アンナと聖母子>1510頃

<洗礼者聖ヨハネ>1514頃


<モナ・リザ>は今までの肖像画の概念を変えた作品でもある。前の画家たちの肖像画は正面ではなく横顔を描いていた。理由としては正面より横顔が描きやすいからでもあった。人の内側の感情まで描くのが真の肖像画だと言っていたレオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画は正面から描いて両目をしっかり描いていた。 <モナ・リザ>が見せる有名なほほ笑みは、しばしば意味深長と評され、数世紀にわたり調査や議論の対象となってきた。<モナ・リザ>の表情は謎めいた感情の象徴とされ、多くの人にとって最初は優しい笑顔に見えるものの、長く鑑賞すればするほど、あざけりや悲しみの表情にも見えてくる。

<モナ・リザ>の名声は、1911年8月21日にルーヴル美術館から盗まれたときにさらに上がった。盗難に遭ったのが発覚したのは翌日の8月22日で、フランス人画家ルイ・ベロー (en:Louis Béroud) が、<モナ・リザ>をスケッチするために、<モナ・リザ>が公開されているサロン・カレを訪れた。しかしながら、<モナ・リザ>が展示されているはずの場所には、額縁を固定する釘が残されているだけだった。ベローは警備責任者に連絡したが、この警備責任者は<モナ・リザ>は宣伝に使用する写真撮影のために移動させられているだけだと思い込んでしまった。数時間後、ベローが美術館の担当者に再度確認したところ、<モナ・リザ>には写真撮影の予定が入っていないことが分かり、<モナ・リザ>が盗難に遭ったことが発覚したのである。ルーヴル美術館は、捜査に協力するために一週間閉館となった。

ルーヴル美術館など「燃えてしまえ」と言い放ったことがあるフランス人詩人ギヨーム・アポリネールに盗難の容疑がかかり、アポリネールは逮捕、投獄された。このときアポリネールは友人だったパブロ・ピカソに助けを求めようとしたが、ピカソも事件への関与が疑われ、尋問のために警察へと連行された。証拠不十分で両者共に釈放されているが、後にアポリネールもピカソも全く事件とは無関係だったことが証明されている。

<モナ・リザ>の再発見については悲観的な見方が大半だったが、事件発生から2年後に、かつてルーヴル美術館に雇われたことがあるイタリア人ビンセンツォ・ペルージャが真犯人であることが判明した。ペルージャはルーヴル美術館の開館時間中に入館し、清掃用具入れの中に隠れていた。ルーヴル美術館の閉館後に隠れ場所を出て<モナ・リザ>を外し、コートの下に隠して逃走したのである。ペルージャはイタリア愛国者であり、イタリア人レオナルドの作品はイタリアの美術館に収蔵されるべきだと信じていたとされる。また、真作の<モナ・リザ>が失われれば複製画の価格が高騰すると持ちかけられたことも、動機となっているという説もある。ペルージャは2年間にわたって自身のアパートに<モナ・リザ>を隠していたが、フィレンツェのウフィツィ美術館館長に<モナ・リザ>を売却しようとして、逮捕された。イタリアに持ち込まれていた<モナ・リザ>は、そのままイタリア中で巡回展示された後、1913年にルーヴル美術館に返却された。

(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B6#)

レオナルド・ダ・ヴィンチが生涯描いたとされる作品は色々説があるが、13点しかないという。この中ルーヴルが所蔵している作品が5点(モナ・リザ、岩窟の聖母子、ミラノの貴婦人の肖像、洗礼者聖ヨハネ、聖アンナと聖母子)と22点のデッサンもあるからこのダ・ヴィンチコレクションは必ず見るべきである。

ルーヴル美術館はいつも込んでいるからここでモナ・リザを見るのも一苦労だが、夜の開館の時に行くと少し空いているからこの機会を利用するのもお勧めする。水曜日と金曜日の夜、ルーヴル美術館は21:45まで開館している。

古典美術の作品は難しく感じるかも知れないが、古典美術の作品は読む作品という。

登場人物は誰なのか、今どういう状況を描写している作品なのか解析が必要で知識が要る。しかし、事前に少し調べていったら誰よりも楽しめるのも古古典美術の作品だと思う。

古典美術の作品が読む作品なら、見る作品が展示されているところがオルセー美術館である。19世紀美術専門の美術館でありながら印象派の画家の作品が数多く収蔵されていることで有名だ。オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。

https://www.musee-orsay.fr/fr

一時は取り壊しの話もあったが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、イタリアの女性建築家ガエ・アウレンティの改修により19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。こうして1986年、オルセー美術館が開館した。美術館の中央ホールは、地下ホームのトレイン・シェッドによる吹き抜け構造をそのまま活用している。

(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8)

オルセー美術館はパリ中心部のセーヌ川沿いにあり、ルーヴル美術館とも近くセーヌ川を渡り徒歩15分弱の距離にある。
公共交通機関で行く場合は、最寄り駅はRER(パリ近郊鉄道)のC線 オルセー美術館駅(Gare Musée d’Orsay)で下車。
地下鉄(Metro)の場合は、12番線のソルフェリーノ(Solférino)駅が最寄りで、駅から徒歩5分ぐらいの距離にある。
開館時間は、 9:30~18:00(木曜は21:45まで)、最終入場時間は、 17:00(木曜は21:00まで)休館日は、月曜日とメーデーとクリスマスである。
オルセー美術館はルーヴルより小さいため、普通のペースで3時間ほど、彫刻などもしっかり鑑賞しようと思うと、4〜5時間かかる。
真ん中に大きな時計のように建物内部には鉄道駅であった面影が残っている。過去の線路に沿ってギャラリーを作っているから左右に並んでいる形である。

オルセー美術館の展示のメインは印象派絵画作品である。今では世界的に有名となっている印象派だが、19世紀当時は不完全な絵として世間に認めてもらえなかった。絵が売れなくて貧しい生活を強いられていたモネ、セザンヌ、ルノワールなどの画家たちに経済的支援をしたのが、自身も画家であったギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)だった。カイユボットは印象派の作品を買い取り、印象派美術展の費用を提供した。今オルセー美術館が成り立っているのは、カイユボットの印象派コレクションのおかげで、カイユボットが絵をフランス政府に寄贈するという遺言がなければ、美術館自体が存在しなかったかもしれない。
オルセー美術館は、大きく0階、2階、5階分かれているが、時代順に見るには0階から5階、2階の順に見るのを推薦する。
0階には、オルセー美術館のメインである印象派作品の前の作品が展示されている。5階はメインの印象派作品、2階は印象派以降の作品が展示されている。
入口から左にあるエリアにはテーマが似ている画家たちのアカデミックな画風の主流作品とそうでない非主流の作品を比較してみることができる。 例えば、主に農村生活や労働者の姿を描いたジュール・ブルトン(1827~1906)の<落穂拾いを終えて>とジャン=フランソワ・ミレー(1814~1875)の<落穂拾い>を比較してみよう。

<落穂拾いを終えて>1859
<落穂拾い>1857

ジュール・ブルトンの作品は美しく幸せな農村への懐かしさ、農民の生活を現実とかけ離れた視点からアカデミックに描いている主流作品だが、ジャン=フランソワ・ミレーの作品はどこか悲しくつらい農村の風景で、当時の現実をうまく表現した作品である。落穂拾いというのは貧しい農民が富農に許諾を得たもので一日中拾っても一食分のパンも作れないほどのものだったという。ミレーの作品をよくみると落穂拾いをしている後ろには山のように小麦が積んであるのが見える。これは当時の農村にあった激しい貧富の格差を表現している。

0階を見ながら進んでいってと突き当りのエスカレーターに乗ると5階に行ける。5階からは素晴らしい展望を見られる。

5階の29番エリアにはエドゥアール・マネ(1832~1883)の<草上の昼食>がある。

<草上の昼食>1863

この作品は、現代美術の始まりと言っても過言ではない。この時までは絵を描くための法則のようなものが存在した。テーマは歴史、宗教、肖像、風景ぐらいであったが、マネは産業革命以降に急速に変化している時代の流れに絵画だけが変化しないことについて疑問を持っていてアカデミックな画風から変わろうとしない美術界にある種の革命家であった。
<草上の昼食>はサロン展に出展したが落選した。この時に落選した画家たちの不満が高まっていたため、ナポレオン3世が落選した作品を集めて落選展を開くように命じて、その展示会で紹介された作品だ。その時までの裸婦画は女神だけであって女神でない人間をヌードで描くことは描いてはいけなかった。
<草上の昼食>の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った。批評家エルネスト・シェノーは、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちにかこまれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。[中略]彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した。このように当時は批判を受けたこの作品は画家たちに今までの慣習から自由意志で作品を描けるということを伝えた作品でもあったから現代美術が始まったとされる。
多くの印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられている。

この他にもクロード・モネの<アルジャントイユの橋>

<アルジャントイユの橋>1874

フィンセント・ファン・ゴッホの<自画像>

<自画像>1889

ポール・セザンヌの<りんごとオレンジ>

<りんごとオレンジ>1899

アンリ・ルソーの<蛇使いの女>など数多くの素晴らしい作品に出会える。

<蛇使いの女>1907

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