<地獄の門>、<考える人>のオーギュスト・ロダンとその女性たち

近代彫刻の開拓者と呼ばれている彫刻家ロダンの知られざる衝撃的な事実

オーギュスト・ロダン(1840~1917)は、19世紀末から20世紀初頭のフランスの彫刻家である。ロダンは「考える人」(The Thinker)や「地獄の門」(The Gates of Hell)などで知られていて、「近代彫刻の父」と称されている。ロダンの作品は、人体の表現や感情の豊かな描写で注目され、ロダンの芸術は象徴主義の影響を受けている。
ロダンは、1840年11月12日にパリで生まれた。父親は警察の事務員で、母親は家庭の主婦だった。ロダンは、幼い頃から芸術に興味を持ち、絵画や彫刻を習い始めた。
ロダンは幼い頃、ひどい近視のために学業が他の子たちより衰えていたという。ミケランジェロの版画集を見て感銘を受け、美術の道に進むことを覚悟することになる。14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校した。プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願したが3回も不合格になって、入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索していた。
ロダンは24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズ・ブーレと知り合うことになる。 ローズは農村出身で都市の女性にはない魅力を感じたロダンは会って間もないうちに同棲を始める。1年後長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけるが、ロダンは自分の戸籍にも載せなかった。しかも一緒に作業する女性モデルと密会を続けていたという。ローズ・ブーレはこれについて何一つ不平不満を言わなかったし、ご主人様とロダンを呼んだという。このようなローズ・ブーレにロダンは老いたロダンの父の看病や家事に生計を立てるために働かせたという。

<鼻のつぶれた男>1864

最初の彫刻作品は古代ローマの立法者の肖像にヒントを得て1860年に制作した<ロダンの父の胸像>だが、この作品はロダンの存命中に展示されることはなかった。1863年から1864年の間に制作した<鼻のつぶれた男>という大理石の胸像が、彼の最初の作品としてサロンに出品された。ロダンはこの肖像に愛着を持ち「初めての良い彫刻」と考えていたが、残念ながらサロンではその存在が知られることはなかった。当時のレベルに合わないという理由で出品を拒否され、左折してしまうことになる。1871年から1877年にかけてロダンはブリュッセルのカリエ=ベルーズのもとで装飾家として働き、一連の風景画を描いた。
装飾職人としての労働も再開したロダンは普仏戦争が勃発して彼も徴兵対象となったが、近視であったことから兵役を免れた。職を求めて新天地に向かうことを決めたロダンは家族とベルギーへ移住して、そこで知り合いの紹介でブリュッセル証券取引所の建設作業に参加した。
ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンは、1876年にイタリアを旅した。ルネッサンス期の芸術家ミケランジェロの作品に出会い、そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受けることになった。

<昼と夜>ミケランジェロ

その後ミケランジェロの彫刻を学ぶためにフィレンツェに渡り、ベルギーに帰国後1877年にミケランジェロの作品の研究をもとに制作した<青銅時代>を発表した。この作品はその完成度の高さから、実物の人体から型取りしたものだと非難された。深く心を痛め憤慨したロダンは、モデルとなったベルギーの若い兵士オーギュスト・ネイトの証言や写真を含む確固たる証拠書類を作成し、二年後に人間よりもかなり大きなサイズの彫刻を新たに制作し、見事に嫌疑を払拭した。この事件を機にロダンの名はフランス中に広まり、この作品は2,200フランで国に買収された。

<青銅時代>1876~1877ごろ

1880年、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの「神曲」地獄篇に登場する「地獄の門」である。だが、ロダンは中々構想が纏まらなかった。
ロダンが生涯をかけた作品<地獄の門>が基礎となり、そこから派生して<考える人>、<私は美しい>などの名作が生み出されることになる。

<地獄の門>

<地獄の門>は幅4m、高さ6mの大作で、事実ロダンの未完成作品で残ることになる。青銅の<地獄の門>はロダンの死後10年後から制作されることになる。地獄に落ちた残忍な人間群像の約200体が表現されている。 <考える人>は、ロダンの最も有名な作品の一つであり、元々<地獄の門>の一部として制作された。この彫刻は哲学的な思索や人間の存在の意味を象徴している。<考える人>のモチーフになったのはミケランジェロの<最後の審判>に描かれている。

この人物の下が地獄で、地獄の入口で恐怖に震えている姿をしている。ロダンはこの人物をモチーフにして<考える人>を制作したから姿勢が似ている。

<考える人>1880

この時期にかの有名な教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。

<カミーユ・クローデル>

ロダンは彫刻で一番重要視したのが「手」であったが、カミーユ・クローデルは「手」の彫刻に長けていたという。ロダンはこのようなカミーユ・クローデルに魅力を感じ、自分の作品のモデルになるように頼んで生まれたのがギリシャ神話に登場する、ペルセウスの母親<ダナエ>である。

<ダナエ>

また、カミーユ・クローデルと出会いで若き才能に刺激され<キス>など女性や愛をテーマにした作品も多く制作する。

<キス(テラコッタオリジナル)>

<キス>はダンテの「神曲」に登場するパオロとフランチェスカの悲恋をモチーフにしたもので禁じられた愛を表現している。官能的で露骨な欲望が表現された作品で、これはまさにロダンとクローデルの愛の話しでもあった。
<ダナエ>と<キス>は、<地獄の門>の中に入る予定で作られたが、二つとも美しいという理由で除外されることになる。ロダンとクローデルの関係はパリ市民に不倫関係として知れ渡ることになるが、二人は作品を次々と制作する。

<ウゴリーノ伯爵>
<フギット・アモール(去りゆく愛)>

しかし、ロダンには内縁の妻であるローズ・ブーレがいて、ロダンは、ローズとクローデルのどちらかを選ぶことができず、中途半端な関係を続けていた。 ローズは大きな心の安らぎの存在であり、クローデルは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在であったため、ロダンは2人のどちらかを選ぶことができず、中途半端な関係を続けた。その中でクローデルは20代後半にロダンの子を妊娠するが、彼は産むことを認めず中絶、多大なショックを受ける。やがて2人の関係は破綻を迎え、ロダンはローズのもとへ帰っていった。芸術と私生活の両面でロダンを支えてきたにもかかわらず、裏切られた形となったクローデルは、1905年頃を境に徐々に精神不安定となり、多くの作品を破壊した。

<シャクンタラ>1888

カミーユ・クローデルのもう一つの作品<シャクンタラ>はロダンが翌年に出した<永遠の偶像>を盗作したとされた。当時女性芸術家に対する偏見とロダンと内縁関係にあった立場からクローデルの作品は正しく評価されなくて認めてもらえなかった。これに対してロダンはクローデルの肩を持つことなど何一つなかった。

<永遠の偶像>1889
<成熟した年齢>1897

カミーユ・クローデルは世間の非難などにくじけることなく、作品制作に力を入れて次の作品<成熟した年齢>を発表したが、ローズとロダン、クローデルの三角関係を表していると思われたため、ロダンはこの作品が世に出ることを嫌がっていた。カミーユ・クローデルがこの作品を出せないように様々な邪魔をしたとされる。カミーユ・クローデルとの関係はこれを機に悪化して34歳にロダンから独立して彫刻家として活動することになって傑作を<ワルツ>を制作した。パリのサロン展で<ワルツ>は出品を拒否されるが、その理由は女性彫刻家が男性のヌードを展示することはわいせつなことだと判断したからである。時代の偏見を垣間見ることができる。

<ワルツ>1889-1893

カミーユ・クローデルはこの後も世間の偏見にくじけることなく、戦略を変えて大きな彫刻から収集家が手にしやすい小さい彫刻を制作するようにした。 葛飾北斎の<神奈川沖浪裏>から影響を受けたとされる<波>、<お喋りする女性たち>が代表的な彫刻である。カミーユ・クローデルがロダンに与えた優れた影響が、ジャポニスムであった。

<波>1897
<お喋りする女性たち>1897
<お喋りする女性たち>1897

このようなカミーユ・クローデルの作品は、ロダンの亜流にすぎないと正しく評価されてなかった。結局カミーユ・クローデルは経済的貧困に陥り、精神的にも破滅していく。彼女の全ての怒りの矛先はロダンに向いていた。1913年49歳になったクローデルは弟ポールによって精神病院に強制入院させられた。精神病院から出られるためにカミーユ・クローデルは弟に手紙を書いたというが、誰も助けてくれなかったという。入院後は創作することはなく、誰とも口を聞いたり知り合おうともせず、一人自分の世界に閉じこもった。1943年78歳で家族にも看取られることなく一人で亡くなった。

カミーユ・クローデルが苦しんだ人生を過ごしている時、ロダンは1900年パリ万博が開催された時に自分の作品の展示会を開き、168点にのぼる作品を展示する。この時の展示会の収益金は約20万プラン(現在の貨幣価値は1億5千万円ぐらい)になったとされる。
また、ロダンは、1887年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ(騎士)を受章し、1900年にはオフィシエ(将校)、1917年にはコマンドール(司令官)、1920年にはグラントゥール(大将)に昇進した。世界各国から多くの勲章や賞を受賞し、世界各国の有名大学の名誉博士にもなった。 世界的な名声を得ていたロダンは60歳がすぎても女性遍歴は変わることなく、ローズ・ブーレと事実婚関係を維持しながら、カミュークローデルと別れた後にもグウェン・ジョンというイギリスの画家と交際する。1904年にグウェン・ジョンにモデルを頼んだことから交際することになるがロダンが64歳、グウェン・ジョンが28歳の36歳差があった。

<Muse Whistler>

グウェン・ジョンはロダンにすごく執着していてロダンから接近禁止命令を出したとされる。

また、雄一の東洋人の日本人モデル花子もいる。花子の作品は頭像とマスクしか残されていないが、ロダンは、数十枚の花子の全身ヌードデッサンを描き残していたという。花子の手記では、ロダンが見せた浮世絵の中には、春画のようなものもあったとされる。
1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。ロダン77歳、ローズ73歳であった。その16日後にローズは死去し、さらに9ヵ月後の11月17日にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は「パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だったという。

ロダンは生涯多くの作品を制作している。その中には有名な<カレーの市民(The Burghers of Calais)>や<3つの影>、<バルザック>などがある。彼の彫刻は、人間の情熱や苦悩、喜びなどを力強く表現しており、その芸術は時代を超えて広く称賛されている。

<カレーの市民>

<カレーの市民>は、1880年、カレー市長により町の広場への設置が提案された。通常なら戦勝記念のモニュメントだけが建設されるが、フランスは普仏戦争の敗北で破壊的被害を受けており、若者の犠牲を表彰することが切望されていた。しかしロダンの作品は論争を生じた。市民を英雄的表現ではなく、むしろ陰気で疲れきった姿として描き出したからである。
ロダンの意図では、このモニュメントは鑑賞者と同じ地面の高さに展示することとされていた。これは、彫刻作品を伝統的な高い台座の上ではなく地面に直接置いたという点で革新的であったが、ロダン死後の1924年までカレー市議会はロダンの意図に反して、像を高い台座上に設置し続けた。カミーユ・クローデルが手と足を手掛けたと知られている。

<3つの影>
<バルザック>

ロダンの芸術は、以下の3つの特徴にまとめることができる。

1つ目は、自然主義的な表現方法である。自然を忠実に再現することにこだわり、自然主義的な表現方法を用いていた。ロダンの作品には、人間の体や表情の細部まで、精緻に表現されている。
2つ目は、人間の感情や内面の表現である。人間の感情や内面を表現することにも力を入れていた。ロダンの作品には、喜び、悲しみ、怒り、苦悩など、さまざまな感情が表現されている。
3つ目は、作品の多様性である。彫刻の分野だけでなく、絵画や版画、装飾芸術など、さまざまな分野で活躍したロダンの作品は、その多様性にも特徴がある。