睡蓮を描き続けたクロード・モネ
印象派を代表する画家で外光派とも呼ばれたクロード・モネ
クロード・モネは1840年パリの雑貨商の家で裕福な環境の次男として生まれた。5歳のころから18歳までノルマンディー地方のル・アーヴルという港町で過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどであったが、18歳のころに風景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられた。
モネは風景画のおもしろさに気付き17歳で描いた<ルエルの眺め>は、ル・アーヴル市展覧会に出品している。
1895年にパリに行ってアカデミー・シュイスに入学し、絵の勉強を始め、シャルル・グレールのアトリエでピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合う。
20代前半、夢を抱いてパリに行ったクロード・モネは、モンマルトルで運命の女性、カミーユというモデルと出会い、恋に落ちる。しかし、当時のモデルという職業に対する偏見や経済的な困窮など、二人の前に立ちはだかる壁は高く、モネの家族は二人の関係を反対する。
それでもモネはカミーユへの愛を貫き、二人は同居生活を始める。1886年サロン展に出展するために描いた<草上の昼食>しようとしていた作品を6か月滞納していた家賃の代わりに大家に取られることもあったが、息子ジャンも誕生し、幸せな時間を過ごすが、貧困は彼らの生活を苦しめていた。モネが絵を売ったり、カミーユが洗濯の仕事をしたりして生計を維持していた。モネはこのころをものすごく生活は苦しんでいたが、愛する家族がいて幸せだったから絵を描き続けることができたと話している。
苦難の中でも、モネは絵筆を握り続けて、愛する妻や息子をモデルに描いた作品には、彼の愛情と喜びが溢れている。
風景は刻々とその表情を変える。そして季節の移ろいの中でも全く別の表情をみせる。
それでは「素晴らしい風景だ」と思った、その瞬間の印象を描くしかない。見たままを忠実に描くというよりはその瞬間の風景から何を感じたかの方が重要だと思ったモネは、降り注ぐ光と影、季節の風と香り、五感に感じる全てを「瞬間の印象」としてキャンバスに描きこんだ。
そんな思いで描いた作品が<印象・日の出>である。
<印象・日の出>は、1874年の第1回印象派展に出品され、「印象派」という呼称のきっかけとなったとされる作品だ。
セーヌ川の河口にある港町、ル・アーヴルの港に昇ったばかりの太陽が、需(もや)を通して1日の始まりの日射しを投げかける。すべてのものの輪郭はぼやけ、空と海の境も定かではない。かろうじて判別できるのは、シルエットで浮かび上がる船だけだ。
具体的な事物の描写ではなく、大胆なタッチで光をとらえ、絵画に対する当時の人々の常識を破る。「仕上げられていない描きかけの絵」、「印象などという馬鹿げた主題」などと酷評を浴びたが、酷評を逆手にとって、1877年の第3回展から公に「印象派」を名のり、世間へのアピールを図っていくことになる。
画家が自然の中で絵の構想を練り、制作に入り、時には戸外で仕上げるためにイーゼル、カンヴァス、油絵の具、パレットを持って出かけるという状況は、まったく新しい試みであり、絵画に革命的な影響を与えた。モネはこのような方法でアトリエを戸外に移した最初の画家の1人である。
これは、そもそも少し前にチューブ絵の具が発明されたことで、初めて可能となった。というのは、粉末絵の具と油を現場で昆合することは、少なくともノルマンディーの強い風の中ではうまく行かなかったに違いない。
しかし、幸せは長く続かなかった。カミーユは病に倒れ、モネの腕の中で息を引き取る。経済的な理由で病院での治療を受けることもできず、深い悲しみと罪悪感に苛まれたモネは葬儀場で顔色が変わっていくカミーユを描く。愛する人の最後の姿を忘れないように二度と描けないカミーユへ最後の愛の告白をする。
愛する人を失った悲しみを乗り越え、モネは印象派の創始者として数々の名画を生み出していく。
パリ郊外のセーヌ川支流に位置するジヴェルニー村には、巨匠クロード・モネが晩年を過ごした館がある。モネは画家であっただけでなく、プロ級の庭師でもあって、理想の庭を自分の手で造り始めた。睡蓮が浮かぶ池もセーヌ川の支流から引いて人工的に造った。
モネの庭園は、日本の浮世絵から影響を受けている。当時ジャポニズムが大流行し、巨匠たちはみな日本に夢中になっていた。モネも莫大な量の浮世絵を所蔵していた。睡蓮の絵に描かれている有名な太鼓橋もその影響の一つである。当時のフランスには太鼓橋のようにカーブした橋はなかったそうなので、モネの目にはとても日本的で魅力的に映ったと思う。
モネはお気に入りの庭園の敷地内のアトリエで、大好きな睡蓮の絵を描き続けた。その数は200点以上にも及ぶ。モネは晩年、睡蓮だけを描き続けていた。当時、同じモチーフを連作で描くのはとてもめずらしかった。季節を通して水面にゆらぐ睡蓮、様々に変化する光を何度描いていた。
第一次世界大戦が勃発してもモネは、私が死ぬのはこのキャンバスの前、この作品の前(睡蓮の前)だ、と言って頑として聞き入れなかったという。
この世を去るまでモネは睡蓮だけを描き続けた。晩年の作品は、初期のものと比べると輪郭がぼやけて、光の反射や影だけで描かれているように見える。手法の変化とともに、視力も弱くなって彼の記憶の中にある睡蓮を描いていたという。毎日眺めていた景色、描き続けた睡蓮は、目で見なくても心の中に広がっていた殻かもしれない。
現在、館とアトリエ、庭園は公開されていて訪れることが出来る。当時と変わらないそのゆらぎ、光、モネが見たであろうその光景を私たちも観ることが出来る。
モネの物語は、愛と苦難、そして希望の物語である。彼の作品を通して、私たちはその情熱と創造性を肌で感じることができる。